斎藤道三 生涯

斎藤道三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/14 15:59 UTC 版)

生涯

前半生

※以下は通説としてかつて知られていた一代記としての道三像で叙述し、新史料による道三の来歴は後述する。

明応3年(1494年)に山城国乙訓郡西岡で生まれたとされてきたが、生年については永正元年(1504年)とする説があり、生誕地についても諸説ある。『美濃国諸旧記』によると、先祖代々北面武士を務め、父は松波左近将監基宗といい、事情によって牢人となり西岡に住んでいたという。道三は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。

その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗った。庄五郎は、西ヶ岡の商家・奈良屋に婿入りし、山崎屋庄五郎と名乗った[3]。庄五郎は、毎年のように、灯油の承認として美濃国を訪れた[3]

大永年間に、庄五郎は油売りの行商として成功し評判になっていた。『美濃国諸旧記』によれば、その商法は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません」といって油を注ぐ一種の人目を引くための行為を見せるというもので、美濃で評判になっていた。行商で成功した庄五郎であったが、ある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ」と言われ、一念発起して商売をやめ、鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという[注 2]

その後、武士になりたいと思った庄五郎は美濃常在寺の日護房改め日運を頼り[注 3]、美濃国の小守護代・長井長弘の家臣となることに成功した。庄五郎は、長井氏家臣・西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称した。

勘九郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現し、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。頼芸が兄・政頼(頼武)との家督相続に敗れると、勘九郎は密かに策を講じ、大永7年(1527年)8月、政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献した。

天文2年(1533年)、道三は、長井新九郎規秀という名で、確実な史料に現れる[4]。同年11月26日、長井景弘(藤左衛門尉)との連署で、長滝寺に出したもので、花押の形状から、道三と同一人物であることが確認される[4]。また、同年、長井長弘(越中守)は68歳で病死しており、長井惣領家は、長弘のあとを景弘が継いだことが分かる[4](この後、天文3年9月付の文書(『華厳寺文書』「藤原規秀禁制」)には道三単独の署名が現れ、それ以降、景弘の名がどの文献にも検出されないことから、この頃までに景弘が引退または死亡したと推定される)。

この頃、土岐頼純が反撃の機会を窺っていた(この頃、政頼は既に死去している可能性が高い)。天文4年(1535年)には頼芸とともに頼純と激突し、朝倉氏、六角氏が加担したことにより、戦火は美濃全土へと広がった。

天文7年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。天文8年(1539年)には居城稲葉山城の大改築を行なっている。

※これらの所伝には、父・新左衛門尉の経歴も入り混じっている可能性が高い。大永年間の文書に見える「長井新左衛門尉」が道三の父と同一人物であれば、既に父の代に長井氏として活動していたことになる。さらに、天文2年6月の文書で藤原(長井)規秀が初めて文書を出しており、それ以前に新左衛門から家督を継承している[5][6]。また、三条西実隆の日記には、この年、道三の父が死去したとある。

美濃国盗り

天文10年(1541年)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が開始した。一時は利政が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542年)に利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸を尾張へ追放して、事実上の美濃国主となったとされている[注 4]。こういった行いから落首が作成され、それは「主をきり 婿を殺すは身のおはり 昔はおさだ今は山城(主君や婿を殺すような荒業は身の破滅を招く。昔で言えば尾張の長田忠致、今なら美濃の斎藤山城守利政であろう)」というものであった[7]。 

しかし、織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純(これ以前にその父政頼は死去していたと推定される)と連携を結ぶと、両者は土岐氏の美濃復辟を名分として朝倉氏と織田氏の援助を得て美濃へ侵攻した。その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、頼純(あるいは政頼も生存し行動をともにしていたかもしれない)は革手城に復帰した。

天文15年(1546年)、もしくは天文16年(1547年)5月21日に道三が出した書状には、陣中見舞いとして枝柿五十とともに抹茶を贈られていることが確認でき、道三が実際に茶の湯を嗜み、陣中においても余暇を利用して茶事に興じていたことが窺える[8]

天文16年(1547年)9月には織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けたが、利政は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ(加納口の戦い、ただし時期には異説あり)。一方、頼純も同年11月に急死した。この情勢下において、利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の帰蝶を信秀の嫡子・信長に嫁がせた。

帰蝶を信長に嫁がせた後の正徳寺(現在の愛知県一宮市冨田)で会見した際、「うつけ者」と評されていた信長が、多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに大変驚き、斎藤利政は信長を見込むと同時に、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐよう(家来)になる」と述べたと『信長公記』にある。

この和睦により、織田家の後援を受けて利政に反逆していた相羽城長屋景興揖斐城主揖斐光親らを滅ぼし、さらに揖斐北方城に留まっていた頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定した[注 5]

晩年・最期

斎藤道三公墳(岐阜市湊町・北緯35度26分17.2秒 東経136度46分25.5秒)
道三塚(岐阜市道三町・北緯35度26分42.3秒 東経136度45分48.6秒

天文末年頃、不住庵梅雪から稲葉良通相伝の茶の座敷置き合わせの『数奇厳之図』を伝授されている [8]。この史料から、不住庵梅雪の茶の湯座敷の置き合わせ法が斎藤道三に伝授され、そこから稲葉良通に相伝され、さらに志野省巴に相伝されたという茶の湯の系統が明らかになっている[8]。戦国美濃には茶の湯の流れが二派あり、草庵茶の系譜と書院風茶の系譜である。道三が足利義輝側近の梅雪を招聘したのは、梅雪流の書院風数寄屋を建てることにより、領国内の武将、武家、領民たちに文化的優越を誇示するための政治的意図があったからである[9]

天文23年(1554年)2月22日から3月10日の間に、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り[10]、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城隠居した[注 6]

道三の突然の引退は家臣達により強制的に行われたと思われる。道三は、当時他の戦国大名が次々に打ち出している民政の新しい施策に匹敵するものの片鱗すら行うことができず[11]、国内統治者および主君としての資格なしと家臣に判定されたのである[11]

ところが、道三は義龍よりも、その弟である孫四郎や喜平次らを偏愛し、ついに義龍の廃嫡を考え始めたとされる。道三と義龍の不和は顕在化し[注 7]弘治元年(1555年)に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵する。

国盗りの経緯から道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず[注 8]、翌弘治2年(1556年)4月、17,500の兵を率いる義龍に対し、2,500の兵の道三が長良川河畔で戦い、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わず戦死した(長良川の戦い)。享年63。


注釈

  1. ^ 木下聡著『斎藤氏四代』によると、六角義秀より偏諱を受けて秀龍と称したというが、六角義秀は架空の人物であるため、秀龍と称した点も創作であると考えられる。
  2. ^ 『美濃国諸旧記』による記述だが、海音寺潮五郎の史伝『武将列伝』では、「道三は武芸ではなく智謀で出世した人であるから、この話は怪しい」として、疑問視している。
  3. ^ 『美濃国諸旧記』による。『武将感状記(砕玉話)』には町外れの草庵に住んでいた庄五郎を土岐(誰か不明)が推挙したというが、海音寺潮五郎の史伝『武将列伝』では、「日運という有力な後援者がいるのと矛盾している」として疑問視している。
  4. ^ ただし、近年では尾張国に追放されたのは次郎であって、頼芸はこの段階では美濃に留まって傀儡の守護としてその地位を保っていたとする異説もある。
  5. ^ 美濃平定後、稲葉山城の七曲百曲口に「主を斬り、婿を殺すは身の(美濃)おはり(尾張)。昔は長田、今は山城」という落書が記されたと言われる。これは源平合戦の頃、尾張の長田忠致が旧主の源義朝を謀殺したことと、道三の行状が匹敵するということを謡っている。
  6. ^ ただし、道三が鷺山城を隠居所としたという話は江戸時代の軍記物には記述があるが、信頼できる資料によって裏づけはできない。『信長公記』では親子4人で稲葉山城に居城していたという記述がある。
  7. ^ 道三と義龍との不和は、義龍が道三の実子ではなく土岐頼芸の子であったからだとする説がある。義龍は大永7年(1527年)の出生で、母の深芳野が土岐頼芸から道三に下げ渡されてから1年以内の出生のためである。
  8. ^ 土岐家自体を慕う旧臣は多く、道三は美濃平定後も常に不穏分子に悩まされ、国内統制に苦慮している。そのため、微罪の者を牛裂き釜茹での刑に処するなどの強権政治を行なっている。勝俣鎮夫は道三から義龍への家督譲渡の背景には、実はこうした残酷な道三の姿勢に不満を抱いた重臣達によって義龍を擁した政変が引き起こされて、道三はそれによって当主の座を追われたに過ぎないとする説を唱えている。
  9. ^ 『過去城州太守道三居士』と書かれている。
  10. ^ 「春日倬一郎氏所蔵文書」(後に「春日力氏所蔵文書」)、現在は「春日家文書」として滋賀県草津市に寄贈[15]
  11. ^ 実父は土岐頼芸という説があるが、これを裏付けるような史料はないため後世の創作というのが有力とされる。
  12. ^ 『勢州軍記』では稲葉良通の甥とある。
  13. ^ 『岐阜軍記』にある「斎藤系図」では長弘の子とも。
  14. ^ 『美濃国雑事記』の中の「長井系図」には長井利隆の子で斎藤道三の弟とある。
  15. ^ 横山住雄著『斎藤道三』によれば道利は長井長弘ではなく道三の一族で庶子であったため嫡男義龍に斎藤氏を、道利に長井氏を継がせたのではないかとしている。

出典

  1. ^ 寛政重修諸家譜』の井上氏の項。
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』に収める松波家の系譜より。
  3. ^ a b 岐阜市 1980, p. 643.
  4. ^ a b c 岐阜市 1980, p. 647.
  5. ^ 小和田 1996.
  6. ^ 木下聡『斎藤氏四代』(ミネルヴァ書房、2020年)27頁
  7. ^ 太田牛一 著、中川太古 訳『現代語訳 信長公記』KADOKAWA〈新人物文庫〉、2013年、77頁。 
  8. ^ a b c 宮本 1979.
  9. ^ 鈴木秀雄「忘れられている美濃戦国文化―斎藤道三の風雅―」(『郷土研究岐阜』76号、1997年)
  10. ^ 桑田 1973, p. 99.
  11. ^ a b 勝俣 1980.
  12. ^ 岐阜市 1980, pp. 644–645.
  13. ^ 岐阜市 1980, p. 645.
  14. ^ 『岐阜県史 史料編 古代中世四 県外古文書』1973年
  15. ^ 村井祐樹『六角定頼-武門の棟梁、天下を平定す-』ミネルヴァ書房、2019年。 
  16. ^ 岐阜市 1980, pp. 645–646.
  17. ^ 船戸政一・清水進「戦国の梟雄斎藤道三」1973年
  18. ^ 松田亮『斎藤道三文書之研究』1974年
  19. ^ 『岐阜県史史料編古代中世四県外古文書』1973年
  20. ^ 船戸政一・清水進「戦国の梟雄斎藤道三」1973年
  21. ^ 松田亮『斎藤道三文書之研究』1974年
  22. ^ 木下聡『斎藤氏四代:人天を守護し、仏想を伝えず』(ミネルヴァ書房、2020年)[要ページ番号]
  23. ^ a b 系図纂要』斎藤氏の項より。
  24. ^ a b 『美濃国諸家系譜』所収『斎藤道三系図』より。






斎藤道三と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「斎藤道三」の関連用語

斎藤道三のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



斎藤道三のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの斎藤道三 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS