富士スピードウェイ コース

富士スピードウェイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 16:14 UTC 版)

コース

5種のコース

2023年現在、場内には「本コース」の他にも、「ショートサーキット」、「マルチパーパスドライビングコース」、「ジムカーナコース」、「カートコース」という合計5つのコースがあり、種目および目的別に使い分けられている。(「#場内設備」を参照)

本コースは、全長1,475mという世界有数のロングストレートを持ち、コース幅も15〜25mと広い(鈴鹿は10〜14m)[84]。かつては直線と高速コーナーからなる超高速コースだったが、時代とともにコーナーを増やす方向で走行速度の減速が図られている。リニューアル前はトップスピードを重視して、マシンにドラッグの少ないウィングやボディカウルが装着されたほか、1990年から1993年にかけて開催されたインターナショナルF3リーグの際に海外から来たチームは、リアウィングのアッパー部分を外して速度を稼ごうとしていた。現在は、低速テクニカルセクションがあるため、ある程度ダウンフォースを付けたセッティングが必要となっている。

開業時

赤と青が1974年までのコース、緑と青が2000年までのコース、青(3コーナー付近は赤、11コーナー付近は緑)が2003年までのコース。30度バンクは赤線の部分。

1966年の開業当時のホームストレートは1.6 kmあり[41]、1974年の30度バンク廃止以降(1.5 km)よりも長い[注釈 30]。ストレートから全開のまま、30度バンクに突入。ぐるりと半円を描き、バンクを通過すると右、左と大きく旋回するS字コーナーを抜けて、現在の2コーナー出口に位置していた合流地点へ。左の超高速コーナー、250Rを通過して右の100Rへ。フルブレーキでヘアピンを抜け、300Rから最終コーナーまでの長い全開区間からホームストレートへ戻り1周となる。1周は6 kmであり、当時の鈴鹿サーキット (6.004 km) とほぼ同距離。フルブレーキポイントはヘアピンのみというハイスピードコースであった。

周回方向は、右回り(時計回り)を基本としつつ、1966年のインディ富士200マイルや1973年の日本GPでは、30度バンクを通らないショートコースを使用し、普段とは逆の左回りでレースが行われた。

30度バンク

30度バンク跡

30度バンクは、富士スピードウェイの開業時の第1コーナーで、最大30度のカントがついたバンクコーナーである。全長1.6 kmのホームストレートから、速度をほとんど緩めることなく突入するという迫力のある区間で[注釈 31]、サーキットの名物となっていた。

このコーナーは、サーキットがオーバルトラックとして計画されたことの名残で、サーキットの当初の設計者であるチャールズ・マネーペニーが考案した最初の案が、大成建設による再設計後も残ったものである。マネーペニーによる初期案(最大バンク角32度)は平坦な土地に建設することを前提に設計されたものであり、傾斜地に建設することを想定してはいなかった[19][31][32]。そのため、このバンクは工事が始まった後の時期までバンク角を最大30度にするか10度程度の緩やかなものにするか検討が続けられ[19][注釈 32]、最終的に当時の副社長である谷藤正三がバンク角を30度とすることを決定した[19]

路面の舗装施工も大成建設(子会社の大成道路)が手掛けた[41][86]。バンクの舗装にあたってはNASCAR社との契約時にもたらされたノウハウが活用され、バンクの上に平坦な路面(助走路)を作り、そこを走るブルドーザーからアスファルトフィニッシャタイヤローラ―をワイヤーで吊って引っぱるという工法が用いられた[41][15][注釈 33]

30度バンクが使われた期間は10年に満たないものだったが、開業以来、事故の多発と数々のエピソードから、誰言うともなく「魔の30度バンク」と呼ばれるようになっていた[22]

開業から10年足らずの間に30度バンクだけでも下記の重大事故が発生し[注釈 34]、1974年6月の事故を受け、同年7月以降、30度バンクは使用されなくなった[60]

  • 1966年(昭和41年)5月3日
第3回日本グランプリにおける、永井賢一の死亡事故[37]サポートレース(前座)のTレースで起きたもので、サーキットにとって初の死亡事故となる[23][37][59]。開業間もない時期に起こったこの事故はサーキット関係者にも衝撃を与え、この事故を受け、ガードレールの角度の見直しと二重化、キャッチフェンスの設置などの対策が30度バンクに施された[88]
  • 1973年(昭和48年)11月23日
富士GC最終戦における、多重炎上事故。この事故により、中野雅晴が死亡した[23]。この事故は、中団を走っていた生沢徹がスピンして漆原徳光と接触したことに端を発して発生し、直後を走っていた中野が急減速したところに後続車が次々に追突し、計8台を巻き込む大事故となった[89]。事故車両のいずれもがバンクの下に滑り落ちたことで、コースはその後も走行可能な状態で、このレースは東京12チャンネルによって生中継されていたことから[注釈 35]、レース主催者は、テレビ放送に空白が生じないようにするため、レースを続行する判断を下した[89][注釈 36]。結果、炎上事故が延々と放送されることになり、後日、大手メディアからも批判を受けた[89]。また、事故後も、炎上の原因となった燃料タンクの安全性などに根本的な対策が講じられることなく、翌シーズンの開幕を迎えることとなる[89]
  • 1974年(昭和49年)6月2日
富士GC第2戦における、多重炎上事故。この事故により、風戸裕鈴木誠一が死亡したほか、観客や後続の選手ら6人が重軽傷を負った[91][19]。前年の事故から短期間の間に起きた事故であり、FISCOは30度バンクの使用中止を間を置かずに決定した。

このバンクには以下の「欠陥」があったと指摘されている。

  • レコードラインが1本しか存在しない
バンクで3台が並走できるよう設計されたデイトナなどと異なり、走行ラインが実質的に1本しか存在しないため、並走することができない[85]。結果、ホームストレートで前走車のスリップストリームに入って追い抜こうとしても、バンクに並走して進入することはできず、一列に並んだ状態で進入するほかなくなる[85]。このことはバンクの入口であるメインストレート終端でレコードラインとなるアウト側を巡る争いを発生させ、1974年6月の事故も含め、多くの事故の一因にもなった[85]
そうなった原因のひとつは、このバンクが下り勾配に建設されたことにあった[37]。バンクの入口と出口で、コースにはおよそ70 mという大きな高低差があった[注釈 37]。そこに最大バンク角30度という大きな横勾配を持つバンクを建設したことで、レコードラインはバンク上方に限定されてしまい、アウトインアウトで走るとしても使えるのはバンク中段までで、バンク下段(イン側)を走ることは不可能となっていた[37]
ホームストレートからバンクに入る時の角度変化が急すぎることも、レコードラインを狭める原因となった[37][注釈 38]
バンク後半には「馬の背」と呼ばれる丘陵上の盛り上がりがあり、その「馬の背」を通過した後の区間のみ、車両を並走させることができ、30度バンク内で前走車をオーバーテイクすることが可能なのはそのわずかな区間だけだと言われていた[85]
  • 舗装の悪さ
舗装技術が未だ未熟な時代にバンクという特殊な建設を行った結果、バンク内の路面は複雑に波打つことになった[85]
波打つ路面上を高速で走るレーシングカーには、縦横のG以外に、接地面が常に変わることによる外力が加わり、跳ねたり、底打ちしたりするという現象に苦しめられた[37][85]
そのことから、レース参加者は、30度バンク対策として、車両のフロアやサスアームを補強しなければならなかった[85]。富士スピードウェイのためだけに特殊なセッティングを要求されることになり、国外で実績のあったポルシェ・917のような車両を海外選手が持ち込んでも、そのままではレースにならないということもあったという[85]
  • 安全設備の欠如
バンクの外側に車の飛び出しを押さえるコンクリートウォールなどの有効な設備を備えていなかった[37]。バンクの最上段外側には高速道路用のガードレールが設置されていたものの[41]、そのガードレールの基礎は脆弱で意味を成していないことは当時からしばしば指摘されている[37]
  • イン側からの風の吹き上げ
イン側のコース内側には平地があり、バンクの下から風が吹き付けるため、車体と路面の間に横から空気が入り、車両が浮くことがあった[85]

レースで30度バンクが使用されることはなくなったが、旧コース時代の末期にイベントの一環として、体験走行会が何度か行われたことがある。現在は、一部の路面がモニュメントとして遺されたメモリアルパークとなっている。

30度バンク廃止後

コース図(1976年 - 1977年)
コース図(1987年 - 2003年)
サントリーシケインを走るマツダ・787(1981年)

1974年7月に30度バンクが廃止され、ショートカットコースをメインとしたレイアウトとなり、コース長は4.359 kmになった。バンクとそれに続くS字区間がなくなり、それに伴い、ホームストレートは約1.5 kmに短縮され、1コーナーはヘアピンとなるという変更が生じたが、それ以外はコースレイアウトに変更はなく、超高速コースである事には変わりない。1976年と1977年のF1もこのコースが使われた。

また、1970年代前半までは、一部のレースがコースを左回りで周回するレイアウトで開催されることがあったが、30度バンクの使用終了に伴い、以降のレースは全て右回りで行われる形に改められている[注釈 39]。ただし、ファン感謝デーや全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)、自転車ロードレースなど、自動車レース以外のイベントで本コースが使われる場合には、2020年代の現在でも左回りで周回することがある。

1980年代には4箇所の改修工事が行われた。

  • ダンロップシケイン設置(1984年) - コース長: 4.410 km
1983年5月に佐藤文康富士グランチャンピオンレースの練習走行中、最終コーナー入口の事故で死亡。同年10月には高橋徹が同じく富士グランチャンピオンレースの決勝レース中に最終コーナーで事故死し、観客にも死傷者が出た。
これらの事故を受け、翌1984年シーズンを前に、300Rから最終コーナーの超高速区間の速度抑制を目的とし、300R出口と最終コーナー入り口の間にある丘を削る形で右、左、右と大きく切り返すシケインが設置された[92]。シケイン脇のウォール部分にダンロップの広告が設置され、ダンロップシケインと呼ばれる。この改修により、コース長は4.410 kmとなり、1984年と1985年の2シーズンに渡って使われた[92]
  • 1コーナーの形状変更(1986年) - コース長: 4.441 km
1コーナーは本来は30度バンク時代に緊急連絡用のショートカットルートとして設けられたもので、レース用に設計されたものではなかった。ホームストレートからブレーキを残しながら回り込むので、入り口で接触事故が起きやすかった。1986年シーズンの開幕を前に、30Rと60Rを組み合わせたコーナーへと改修され、ストレートエンドで十分減速してからコーナリングする形となった[92]。この改修により、コース長は4.441 kmとなる[92]
  • サントリーシケイン設置(1987年) - コース長: 4.470 km
1987年夏には、100R手前の左260Rの超高速コーナーにシケインが設置された[92]。コーナーだった区間を直進し、フルブレーキで左、右と切り返す形となった。これにより100Rは大きく狐を描くように右に回り込む形となり、難易度は大幅に増す事になる。サントリーがスポンサーとなり、1990年代以降は缶コーヒー「BOSS」の大看板が設置される。このシケインを「Aコーナー」、ダンロップシケインを「Bコーナー」とする簡略化した名称も一般的に使われるようになった[92]。この改修により、コース長は4.470 kmとなる[92]
なお、この時に1コーナーからバンクへと続く路面は剥がされ、ダートのランオフエリアとなった。
  • 1コーナーの形状変更(1988年) - コース長: 4.470 km
1988年7月、富士500マイルの練習走行中に、クリス・ニッセンが駆るポルシェ・962Cが1コーナーでコースアウトし、大破炎上するという事故があった[92]。これを受けて、事故直後に1コーナーはさらに形状の見直しが行われた[92]。この時にコース長の変更は行われなかったが、1999年に再計測された際にコース長は4.400 kmに改められた[92]

この1980年代の時点で、三菱地所はサーキットへの追加投資には消極的で、運営会社のFISCOはかろうじて黒字という財務状況だったことから、大金が必要な改修に費用を投じる余裕はなく[92]、事故が発生する都度、主にシケインを設置するという形で、部分的な改修が繰り返された。基本設計は1966年の開業当時からひきずったものであるため、サーキットの国際的な安全基準の高まりに追従することができておらず、1990年夏には、1コーナーのコンクリートウォールについて、危険すぎるとして来日外国人ドライバーたちから改修の要望書が提出されるといった事態にも発展した[87][注釈 40]

リニューアル後

空中写真(2007年)
コース図

2000年にサーキットを買収したトヨタ自動車が、200億円とも言われる多額の費用を投じて[73]、サーキットは全面的に刷新された。全面リニューアルされたサーキットは2005年から使われており、同年にFIAの「グレード1」を取得[4]。コース長は4.563 km、コーナー数は16となる。

ヘルマン・ティルケが再設計をするにあたり、富士スピードウェイ側からはメインストレートは残すよう要望が出され[93]、他の区間はティルケの裁量に任された。リニューアル以前、安全対策として各所に間に合わせのシケインが設置されていった一方、ランオフエリアは狭く[94]、サーキットの性格は曖昧なものになっていた。そのため、ティルケは、サーキットの安全性は高めた上で[94]、Aコーナーが設置される前の「超高速コース」という個性を復活させることを設計コンセプトにした[95]

この再設計により、1コーナーから100Rにかけての区間が1983年以前の形状に近い高速寄りのレイアウトに戻ったほか、コース終盤の登り区間である第3セクター(ターン10以降)が大きく変更され、中低速コーナーの連続するテクニカルセクションへと姿を変えた。

  • ターン1(TGRコーナー)ターン2
右コーナーのターン1とターン2は旧レイアウトではどちらも直角に近い形状だったが、ターン1は鋭角なヘアピン形状へと改められ、ターン2も緩やかな右コーナーとなった。旧レイアウトではアウト側に充分なスペースがなかったため、ターン1の位置を内側に50 mほど移設することでランオフエリアが広げられた[93]
両コーナーのイン側には小山状の盛り上がりがあったが、それを削り取ることで、ターン1手前(コース外側)の常設スタンド席から見渡せる範囲を広げる工夫が施された[93]。ターン2からの坂はなだらかになり、ターン3へつながる形状が改善された。
再設計にあたって、ティルケはメインストレートの長さが富士スピードウェイの最大の魅力だと考えたため、最大のオーバーテイクポイントであるターン1の形状には意が配られた[93]
旧レイアウトではサントリーシケインが置かれていたが、直角に近い形のシンプルな左コーナーに姿を変えた[93]。旧レイアウトでは特にコーナー入口が事故の多発地点となっていたため、関谷正徳の助言を受けてティルケが形状を変更した[93]
  • ターン4ターン5(100R)ターン6(ヘアピン)
大きな弧を描く高速右コーナーからヘアピンに至るという特徴的な区間であることから、旧レイアウトを維持することが心がけられた[93]。そのため、改修前後の変更は一見すると小さいが、ランオフエリア確保のため100Rの形状が若干変更され、改修前よりもカーブが緩くなり通過速度が高くなっている[注釈 41]。ヘアピンもイン側に若干移され、100R出口からヘアピン入り口の距離は縮み、ブレーキングが非常に難しくなった。
  • ターン10(ダンロップシケイン)
ヘアピンを抜けると右の超高速コーナー300Rへ入り、全開のままダンロップシケインへ入る。
ダンロップシケインは、大部分のレースでは、ヘアピン状のターン10を右に鋭角にターンし、左(ターン11)~右(ターン12)とつづら折りに曲がる、シケインのレイアウトが使用されている[93]。フルブレーキから右に大きく切り返し、すぐに左に切り返して右に曲がりながら勾配を登る形となり、旧レイアウトのダンロップシケインと比べて通過速度は大幅に下がっている。
もうひとつのレイアウトとして、ターン10を直角に右に曲がるレイアウトも用意されているものの[93]、自動車レースで使用されることは、極めて稀である。比較的規模の大きなレースでは、2018年7月20-22日に開催されたブランパンGTアジア第7戦で、シケインの舗装に剥離が生じたため、急遽、そのレイアウトを使用した例がある[96]
  • ターン13(第13コーナー)ターン16(最終コーナー)
コース終盤のテクニカルセクションは坂を上りながら、ブラインドでラインが複数あるという、難易度の高いつづら折りのコーナーが右、左、右と3つ連続で続く。最終コーナーもラインが複数あり、レースカテゴリーによっても異なるが、インベタで回るドライバーもいれば、外を回るドライバーもおり、ここの脱出がストレートの速度に影響するため、非常に難しいコーナーとされている。
(旧レイアウトに存在した)シケインを取り払い、すべてのコーナーをもっと内側に移動させて、(1983年以前の)元来のレイアウトにできるだけ近づけるようにした。もちろん現代のF1マシンにとっても十分なランオフエリアを確保した上でね。その結果、昔のコース全体をほぼ再現するような形になった。ただし問題がひとつあった。ラップタイムが短すぎたんだ──1周が1分を切るくらいだったからね。コースに極端な低速区間(ダンロップシケイン以降のつづら折り区間)を設けたのはそれが理由だ。(中略)あの低速区間を作らなければ、ラップタイムが短くなってしまい、F1のためのホモロゲーションを受けることができなかっただろう。そのため元々の計画(超高速コースの復活)からは少し違う結果になってしまったが、コースの4分の3は昔のコースにかなり似ていると思う。[94] — ヘルマン・ティルケ(2006年)

ピットレーン入り口はホームストレートの中間にあるため、ピットに入る速度を大きく抑制するためにシケイン状のコーナーになっている。このピット入り口のシケインを上手く通過する事でピットのロスも減らせる形になっている。また、ピットロード出口が以前と比べ1コーナー寄りに改められ、ピットアウト時のスピードを下げる工夫がなされている。

コーナー名

ネーミングライツが導入されており、各コーナーには以下の名称がある。ターンは現在のターン数による。

  • ターン1
    • TGRコーナー(2016年 - )[97]
    ターン3
    • サントリーコーナー(1987年 - 2003年)
    • コカコーラコーナー(2003年 - )
    ターン4~ターン5(100R)
    • トヨペット100Rコーナー(2016年 - 2022年)[97]
    • グリーンファイト100R(2022年 - )
    ターン6(ヘアピン)
    • ADVANコーナー(2009年 - )
    ターン10~ターン12(シケイン)
    • ダンロップ(1984年 - )
    ターン14
    • ネッツコーナー(2005年 - 2009年)
    • プリウスコーナー(2009年 - 2016年)
    • レクサスコーナー(2017年 - 2018年)
    • GRスープラコーナー(2019年 - )
    ターン15(最終コーナー)
    • パナソニックコーナー(2005年 - )

立地

サーキットから眺める富士山

富士山の東裾野、標高545-580mの土地にあり、天候が不安定であることで知られる。夕方以降には気温が急激に下がることも多い。また、気圧が低い関係からターボチャージャー搭載車が有利となり得るため、一時期のSUPER GTでは自然吸気車にハンデが与えられたこともあった。霧の発生も多く、緊急時用のドクターヘリの飛行が困難になることもある。

霧の発生や大雨により、レースの中止やスタートの遅延などが起きる場合もある。全日本ツーリングカー選手権ではスタートが大幅に遅延し、午後5時過ぎになってようやく中止裁定が下されたり、フォーミュラ・ニッポンではスタート遅延後に僅か5周で「レース成立」として終了した事例もある[注釈 42]。悪天候に見舞われたケースは以下の例がある。


注釈

  1. ^ 他、レース場及びレース場の付帯設備の貸し出し、ドライビングスクールの経営、看板広告・プログラム広告など広告に関する業務、といったことを事業内容にしている。
  2. ^ 非常設の「グレード1」サーキットを含めると、バクー市街地コースのホームストレート(約2.2 km{1箇所の緩いカーブを含む})、ラスベガス・ストリート・サーキット(約2 km{1箇所の緩いカーブを含む})のほうが長い。グレード1のサーキットで長いストレートを持つ他の常設サーキットとしては、上海インターナショナル・サーキット(1.202 km)、バーレーン・インターナショナル・サーキット(1.090 km)、ルサイル・インターナショナル・サーキット(1.068 km)がある。
  3. ^ より長いストレートの例は少なく、バクーのほか、グレード1の認定を受けていないサーキット(コースレイアウト)では、ニュルブルクリンク・北コースのドッティンガー・フーエ(約2 km)、ポール・リカール・サーキットのシケインを置かないミストラル・ストレート(約1.8 km)、歴史的にはアヴスの2本の直線路(どちらも約9 km)、サルト・サーキットのシケインが設けられる前のミュルサンヌ・ストレート(約6 km)、建設されなかったハノイ市街地コースのストレート(1.5 km。ただし直線ではない)といった例があるのみとなる。
  4. ^ 当時の建設大臣である河野一郎(1961年から1964年7月にかけて大臣職を務めた)の提唱が企画の発端になったという説があるが[12][13]、河野が日本ナスカー社(森長英)からの要請で建設計画に参画を始めたのは1964年秋以降とされており(後述)、この説は経緯や時系列が建設計画の当事者たちの証言と一致しない。富士スピードウェイ自身は、自社刊行物の中でニコルズがストックカーレースを誘致しようとした動きがサーキット設立の発端となったとたびたび記しており[14][11][15]、第三者による関連書籍でも同社の見解に沿った説明がされている(各関連書籍の記述や実際に建設に携わった当事者の証言では例外は見られない)。河野の息子で自身も建設計画に深く携わった河野洋平も、建設計画は河野の参画以前から存在し、森長英の要請で関わり始めたという経緯を具体的に述べている[16]
  5. ^ ニコルズがNASCAR方式のレースを日本に導入しようとした動機について、ニコルズ本人は自身の思いによるものだと述べているが[17]、自国の自動車産業を日本に進出させたい米国側の意向によるものだという説もある[18][19]
  6. ^ ニコルズが森に売り込みを行った時期は1963年秋とされる。ニコルズは、丸紅飯田を特に決め打ちして交渉したわけではなく、総合商社の上位から接触していき、丸紅飯田は「4番目」だったと述懐している。
  7. ^ 日本ナスカー社は資本金2000万円で設立されたにもかかわらず、NASCAR社との3万ドル(当時のレートで約1080万円)もの多額の契約料で契約した[9]。それとは別に、設計者のチャールズ・マネーペニーにも2万5000ドル(約900万円)の契約料を支払った[9]。このことは日本ナスカー社の資金が1年も経たずに枯渇する要因のひとつとなる[22]
  8. ^ モスが来日して現地視察を行い、コースレイアウトへのアドバイスを行った時期について、「9月」[23][24]、「初秋」[22]という説があるが、1964年当時の記事では「8月」[25]となっているため(発行日が8月末の雑誌に掲載されているため)、ここでは8月としている。
  9. ^ 小山町による積極的な誘致活動が決め手になった[19]。同町が誘致活動を行った背景として、富士スバルラインの開業(1964年)があったとされ、それまでの同町は須走地区にあった民宿が富士登山口として栄えていたが、宿泊客の減少を他の産業で補う必要があったためと考えられている[19]
  10. ^ 賃料は経済状況の変化を見て3年毎に更新[21]。この時に日本ナスカーが提示した経営見通しは非の打ち所がないものだったと地権者たちから評価された[27]。なお、副社長の河野洋平は後年のインタビューで土地を「100万坪」、借地期間を「確か99年間」と言っているが[28]、これは記録とは異なる(河野本人も記憶に基づいて話すので正確さは自信がないと前置きしてインタビューを受けている)。
  11. ^ この時の地権者たちの意志は固く、1980年代に三菱地所側の要望(業態をサーキットからレジャー施設に変更したい)で廃止問題(→#廃止の危機)が起きると、地権者の大部分はサーキットを別の施設に転用することに反対し[27][29]、少なくとも借地期間の「30年間」はレース場として使うよう望んだという[29](サーキットを維持することを大前提として、敷地内にレジャー施設など他の用途の施設を置くことには反対していない[29])。
  12. ^ 日本ナスカー社とNASCAR社が契約した時点では「平坦な土地」が用意されるという話がNASCAR社に伝えられており、マネーペニーはそれを大前提とした設計案とコース模型を訪日前に完成させていた[20][32]
  13. ^ モスを招聘したのはニコルズで、当時の日本でモスは「レースの神様」といった位置付けだったので、その威光を利用する意図があった[31][32]。招聘の狙いはいくつかあったとされ、ロードコースへの再設計という方針の大転換をするための後ろ盾(モスの威光)を必要としたこと[31][32]、実際にモスの知見を必要としていたこと[33](この点はマネーペニーが要望した[31])、遅々として進まない建設計画に苛立っていた地権者たちをなだめること[19][33]、などの目的があったと言われている。ロードコースへの転換は後述の河野グループの参画以前に決定した[34]
  14. ^ 当時、大映社長の永田雅一の主宰で「タキシード会」という集まりがあり、森と河野は政財界の人間で構成されたその会のメンバーで、以前から非常に懇意にしている仲だった[16]。サーキット建設に関する話を河野はこの会で初めて聞いたと考えられている(息子の河野洋平の見解)[16]
  15. ^ 河野一郎が参画を決めたのは森への義理立てによるもので、河野本人はレース場自体には特に関心を持っていなかった[28]。森の後任社長の鈴木九平(日本水産元社長)は経団連の有力メンバーで、サーキット建設に専任・専念できる立場ではなく[36]、後見役という形で関わった[37](鈴木も河野との関係からこの役目を引き受けた)。年長者たちがそうした具合で建設計画とは距離を置いていた一方、河野の息子で当時26歳だった洋平は、米国帰りで運転免許も取得したばかりで、自動車に興味を持っていたという時期だったこともあって[28]、サーキット建設に熱心に入れ込むことになる[38]。河野一郎が送り込んだもう一人の副社長として、建設省出身の谷藤正三(後のFISCO 2代目社長)が就任し、技術面の責任者となった[37]。谷藤は京都帝国大学土木工学科出身のテクノクラートであり、FISCO側に建設工事の専門家が他にいなかったこともあって、建設会社との折衝など全般に渡って「その知識と経験はずいぶんとものを言った」という[39]
  16. ^ 河野洋平はサーキット開業後の1966年6月までは副社長を務めた[35]。それまでの間、1965年12月の日本GP開催発表の記者会見や[44]、1966年5月の第3回日本GPの時は副社長を務めている(本人も副社長として日本GPを迎えたことを回顧している[45])。FISCOを去った後、河野は1967年1月の第31回衆議院議員総選挙で初出馬した。以降の河野は、政治家として非常に有名になった反面、政治家となる以前に富士スピードウェイに関わっていたことはあまり知られていない。
  17. ^ 河野一郎の生前も洋平らは資金集めに苦労しているが、河野の口利きで日本開発銀行からの融資があることは時間の問題と考えられていた[35]
  18. ^ 渡辺はこの参画には大成建設への義理立てや、若い河野洋平を助ける意味合いが大きく、三菱地所として自動車レース場を長く所有する意味はなく、いずれは自動車会社なりに渡すべきものだという認識を示している(1967年)[47]。将来的に他者に売却するという腹案があったことで、渡辺は、より良い状態で事業を引き渡せるようにするため、サーキット経営についても真剣に考え、ル・マン24時間レースや欧米のサーキットを視察して回り、熱心に取り組んだ[46]
  19. ^ 三菱地所は富士スピードウェイに隣接する土地を以前から所有し、そこで冨士霊園の経営を行っていた[48]。三菱地所は富士スピードウェイの借地内に建設中だった東富士カントリークラブにサーキット以上に関心を持っており、こちらの建設も引き継ぐことになる[48](同ゴルフ場は渡辺武次郎がコース設計に加わって完成し1967年10月に開場)。
  20. ^ 1976年のレースはFISCO、スポーツニッポン新聞社毎日新聞社の共同主催によって開催されたが、開催が赤字に終わったことが問題視され、スポーツニッポン社は1回の開催のみで主催から降りた[53][54]。一方、F1CAと複数年開催の契約を結んでいた手前もあり[53][55][54]、1977年の開催では、日本自動車連盟(JAF)がFISCO、TBS・毎日新聞社と組む形で日本モータースポーツ協会を設立して、主催者を引き受け、開催が継続された[55][54]。JAFは、当初、FISCOと鈴鹿サーキットに単独主催の話を持ち掛けたが、両サーキットに(赤字開催が目に見えているということで)断られ、日本自動車工業会、自動車メーカー各社からの協力も拒否されたため、やむなく自身の主導で主催することにした[55]。このことは、1977年の事故で批判を浴びたJAFが主催者から降りることの伏線となる[54]
  21. ^ 青年会議所が提出した陳情書は無知と偏見に基づいたもので、この時点では、静岡県側も小山町とよく話し合うよう諭すという穏当な対応をした[58]。しかし、1980年になって、三菱地所が御殿場JCの意を汲む方向で動き出したことで、事態は厄介なものへとなっていった[58]。以降、三菱地所は、サーキットを他の事業に転用しようとしているのは静岡県知事からの要請によるものだという(筋の通っていない)説明を繰り返し行うことになる[61]
  22. ^ 当時のFISCOの経営陣は三菱地所出身者で占められていた。この発表により、三菱地所と静岡県知事の思惑が明らかとなり[64]、関係者は危機感を強めることになる。
  23. ^ 漫画家しげの秀一は『バリバリ伝説』(『週刊少年マガジン』)のタイトル頁で、主人公巨摩郡が「FISCOなくなったら困るぜ!みんなで反対しよう!」と呼びかける形で反対運動に賛同した。
  24. ^ この間、7月7日に静岡県知事に新任の斉藤滋与史が就任している。前任の知事で再選(4期目)を目指さず引退した山本敬三郎(在:1974年 - 1986年)が三菱地所寄りだったのに対して、元衆議院議員の斉藤は自動車産業に理解があったとされ[67]、知事に当選した場合に存廃問題にも影響があるだろうということは、斉藤が知事選への立候補を噂されていた時期から言われていた[67]。実際、山本の退任と時を同じくして、サーキット廃止の動きは突如として消滅した[68]
  25. ^ 株式譲渡前が行われる前は、富士スピードウェイの発行済株式の内、80%(352万株)を三菱地所が、20%(88万株)を大成建設が保有していた[71]。2000年の資本参加発表時点で、49%(215万株)がトヨタ自動車、31%(137万株)が三菱地所の保有という形に変化した(この時点で大成建設の持ち分に変化はない)[71]。その後、第三者割当増資後の株式保有割合は、トヨタ自動車63.11%[61]、三菱地所20%、大成建設13%となる(2002年3月時点)。
  26. ^ 経営参画直後から大改修についての意向を示していた[72]
  27. ^ この工事には、およそ200億円が投じられた[73]。工事による閉鎖期間は1年半に及び、この間の富士スピードウェイ社員の雇用問題は、近傍の東富士研究所をはじめとするトヨタ関連企業に出向してもらう等の方策で、トヨタ自動車が一手に引き受けた[73]
  28. ^ レース運営のための設備もF1開催を見据えて品質が引き上げられており、一例として、計時装置は従来は1/2,000秒単位で計測を行っていたが、セイコーの協力により、1/10,000秒単位の計測が可能なシステムに置き換えられている[74]
  29. ^ 富士スピードウェイ社は富士モータースポーツフォレスト社の完全子会社、富士モータースポーツフォレスト社はトヨタ自動車の完全子会社、という関係。
  30. ^ 元々は飛行機の滑走路にも転用できるよう設計された[41]
  31. ^ 全開のまま進入できるか、ストレートエンドで速度を緩める必要があるかは車種(カテゴリー)によって異なっていた[85]
  32. ^ この時点でマネーペニーは建設計画から離脱していたが、マネーペニーは、現地視察後に作成した設計案で、バンク角を最大14度の緩やかなものとすることを提案していた[37]
  33. ^ アスファルトフィニッシャ―は操縦席やエンジンを15度傾けるという改造が施され[41]、タイヤローラーは最も傾斜が大きい30度の横傾斜の場所で自走すること不可能だったため、2台のブルドーザー(アンカー用と牽引用)を使って横方向に輾圧することで解決した[41]
  34. ^ 同期間にその他の区間でも死亡事故が複数発生している[87]
  35. ^ この年の富士GCで、他のレースは録画放送だったが、この最終戦だけ生中継が行われていた[89]
  36. ^ 富士GCは富士スピードウェイとFISCOクラブによる主催。当時、富士GCは富士スピードウェイの経営を支える屋台骨でもあり、収入の6割を占めていた[90]
  37. ^ 富士スピードウェイの建設当時、最高地点のホームストレートは標高およそ581メートル、最低地点は1コーナー終端付近にあり509メートルだった[41]
  38. ^ 30度バンクは、前半に最大バンク角の30度区間があり、出口付近でバンク角は10度ほどに緩やかになる[41]
  39. ^ 具体的には、1974年7月28日開催の富士1000キロから30度バンクの不使用が全レースに適用されるようになった[23]
  40. ^ トヨタ買収直後の2001年時点でも、全日本F3000選手権フォーミュラ・ニッポンの経験があるジョニー・ハーバートハインツ=ハラルド・フレンツェンペドロ・デ・ラ・ロサは、改修すべき点を問われて、コンクリートウォールの前にタイヤバリアがあるのみの1コーナーや、ランオフエリアが狭い2コーナーについて苦言を呈している[72]
  41. ^ 改修前の100Rはランオフエリアが狭い上、アウト側(ガードレールの先)は崖になっており、安全面の懸念から改修が求められていた[71]
  42. ^ 正式に中止となったレースではチケットの払い戻しや振り替えなどが行われるが、形式上「レース成立」となったレースはチケットの払い戻しは行われなかったため、来場者などから不満の声が上がったこともある。
  43. ^ 豪雨の為レース距離を500 kmに短縮、スタート時間も大幅に遅らしたが、その後濃霧も発生し赤旗の後、レース中止となった。
  44. ^ 濃霧のため決勝レースが2周で打ち切りとなった。詳細は[98]等を参照。
  45. ^ 豪雨とそれに伴う濃霧のためセーフティーカーランのレッドフラッグでレースらしいレースのないまま途中打ち切り、16周で成立。FIA 世界耐久選手権#日本開催
  46. ^ 1999年に再計測され、4.400 kmに改められた。1999年のル・マン富士1000kmもJSPC時代より4周多い228周で争われた。
  47. ^ 地下通路の途中でパドックへの入口(階段)も設けられているが、イベント開催時はパスコントロールが行われる(有効なパスを持っていないと利用できない)。
  48. ^ トヨタ自動車が経営に参画した2000年の時点で、サーキットホテルの必要性についての認識はあったが[72]、具体的な計画はなかった。
  49. ^ 自家用車で走行が可能だが、大型SUVやワンボックスカーなどのスポーツ走行に適さない車種では、本コースを走行することは認められていない[128]
  50. ^ 東富士カントリークラブは富士スピードウェイの誕生過程で設立された施設だが(→#三菱地所傘下へ)、三菱地所は、富士スピードウェイの経営からは手を引いた後も、ゴルフ場の運営会社を完全子会社として維持しており[129]、東富士カントリークラブには関与を続けている。
  51. ^ a b c d かつては大御神レース村に所在[61]
  52. ^ 以前はヘリポートは西ゲート付近に置かれていたが、現在の場所に移設され、跡地は富士スピードウェイホテルの敷地となった。
  53. ^ 撮影は、1969年5月のフジスピードカップに際して行われた[23](映画は1969年7月公開)。

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