富士スピードウェイ 宿泊

富士スピードウェイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 16:14 UTC 版)

宿泊

敷地に隣接して「富士スピードウェイホテル」が所在する。また、地元の小山町[138]及び御殿場市周辺は元々避暑地や富士山登山の拠点であり、ビジネスホテルシティホテルリゾートホテル旅館民宿ユースホステルの他にも、会員制リゾートホテルをはじめとする宿泊施設が多数点在する。また、周辺には山中湖河口湖箱根といった日本有数の観光宿泊施設の集積地があるため、通常時は宿泊施設の確保が比較的簡単にできる。

一方、富士スピードウェイの世界選手権大会や全日本格式のレースの開催日や連休、富士急ハイランドでの野外コンサート、御殿場市のゴルフ場でのプロゴルフトーナメント[139]の時期は、観客や関係者により早くから予約が埋まるので注意が必要である。

富士スピードウェイが登場した作品

映画
テレビドラマ
アニメ
主人公が御殿場市に居住している設定で、周辺地域も描写される。
現行のレイアウトに旧レイアウトの30度バンクとS字コーナーを合体させた、架空仕様の「ネオ富士スピードウェイ」でのレースも登場している。
ゲーム
アーケードゲーム。1982年当時の旧コースが収録されている。
リニューアル前とリニューアル後のレイアウトを収録。
2020年に「富士スピードウェイ公認コースMOD」を追加。

関連項目


注釈

  1. ^ 他、レース場及びレース場の付帯設備の貸し出し、ドライビングスクールの経営、看板広告・プログラム広告など広告に関する業務、といったことを事業内容にしている。
  2. ^ 非常設の「グレード1」サーキットを含めると、バクー市街地コースのホームストレート(約2.2 km{1箇所の緩いカーブを含む})、ラスベガス・ストリート・サーキット(約2 km{1箇所の緩いカーブを含む})のほうが長い。グレード1のサーキットで長いストレートを持つ他の常設サーキットとしては、上海インターナショナル・サーキット(1.202 km)、バーレーン・インターナショナル・サーキット(1.090 km)、ルサイル・インターナショナル・サーキット(1.068 km)がある。
  3. ^ より長いストレートの例は少なく、バクーのほか、グレード1の認定を受けていないサーキット(コースレイアウト)では、ニュルブルクリンク・北コースのドッティンガー・フーエ(約2 km)、ポール・リカール・サーキットのシケインを置かないミストラル・ストレート(約1.8 km)、歴史的にはアヴスの2本の直線路(どちらも約9 km)、サルト・サーキットのシケインが設けられる前のミュルサンヌ・ストレート(約6 km)、建設されなかったハノイ市街地コースのストレート(1.5 km。ただし直線ではない)といった例があるのみとなる。
  4. ^ 当時の建設大臣である河野一郎(1961年から1964年7月にかけて大臣職を務めた)の提唱が企画の発端になったという説があるが[12][13]、河野が日本ナスカー社(森長英)からの要請で建設計画に参画を始めたのは1964年秋以降とされており(後述)、この説は経緯や時系列が建設計画の当事者たちの証言と一致しない。富士スピードウェイ自身は、自社刊行物の中でニコルズがストックカーレースを誘致しようとした動きがサーキット設立の発端となったとたびたび記しており[14][11][15]、第三者による関連書籍でも同社の見解に沿った説明がされている(各関連書籍の記述や実際に建設に携わった当事者の証言では例外は見られない)。河野の息子で自身も建設計画に深く携わった河野洋平も、建設計画は河野の参画以前から存在し、森長英の要請で関わり始めたという経緯を具体的に述べている[16]
  5. ^ ニコルズがNASCAR方式のレースを日本に導入しようとした動機について、ニコルズ本人は自身の思いによるものだと述べているが[17]、自国の自動車産業を日本に進出させたい米国側の意向によるものだという説もある[18][19]
  6. ^ ニコルズが森に売り込みを行った時期は1963年秋とされる。ニコルズは、丸紅飯田を特に決め打ちして交渉したわけではなく、総合商社の上位から接触していき、丸紅飯田は「4番目」だったと述懐している。
  7. ^ 日本ナスカー社は資本金2000万円で設立されたにもかかわらず、NASCAR社との3万ドル(当時のレートで約1080万円)もの多額の契約料で契約した[9]。それとは別に、設計者のチャールズ・マネーペニーにも2万5000ドル(約900万円)の契約料を支払った[9]。このことは日本ナスカー社の資金が1年も経たずに枯渇する要因のひとつとなる[22]
  8. ^ モスが来日して現地視察を行い、コースレイアウトへのアドバイスを行った時期について、「9月」[23][24]、「初秋」[22]という説があるが、1964年当時の記事では「8月」[25]となっているため(発行日が8月末の雑誌に掲載されているため)、ここでは8月としている。
  9. ^ 小山町による積極的な誘致活動が決め手になった[19]。同町が誘致活動を行った背景として、富士スバルラインの開業(1964年)があったとされ、それまでの同町は須走地区にあった民宿が富士登山口として栄えていたが、宿泊客の減少を他の産業で補う必要があったためと考えられている[19]
  10. ^ 賃料は経済状況の変化を見て3年毎に更新[21]。この時に日本ナスカーが提示した経営見通しは非の打ち所がないものだったと地権者たちから評価された[27]。なお、副社長の河野洋平は後年のインタビューで土地を「100万坪」、借地期間を「確か99年間」と言っているが[28]、これは記録とは異なる(河野本人も記憶に基づいて話すので正確さは自信がないと前置きしてインタビューを受けている)。
  11. ^ この時の地権者たちの意志は固く、1980年代に三菱地所側の要望(業態をサーキットからレジャー施設に変更したい)で廃止問題(→#廃止の危機)が起きると、地権者の大部分はサーキットを別の施設に転用することに反対し[27][29]、少なくとも借地期間の「30年間」はレース場として使うよう望んだという[29](サーキットを維持することを大前提として、敷地内にレジャー施設など他の用途の施設を置くことには反対していない[29])。
  12. ^ 日本ナスカー社とNASCAR社が契約した時点では「平坦な土地」が用意されるという話がNASCAR社に伝えられており、マネーペニーはそれを大前提とした設計案とコース模型を訪日前に完成させていた[20][32]
  13. ^ モスを招聘したのはニコルズで、当時の日本でモスは「レースの神様」といった位置付けだったので、その威光を利用する意図があった[31][32]。招聘の狙いはいくつかあったとされ、ロードコースへの再設計という方針の大転換をするための後ろ盾(モスの威光)を必要としたこと[31][32]、実際にモスの知見を必要としていたこと[33](この点はマネーペニーが要望した[31])、遅々として進まない建設計画に苛立っていた地権者たちをなだめること[19][33]、などの目的があったと言われている。ロードコースへの転換は後述の河野グループの参画以前に決定した[34]
  14. ^ 当時、大映社長の永田雅一の主宰で「タキシード会」という集まりがあり、森と河野は政財界の人間で構成されたその会のメンバーで、以前から非常に懇意にしている仲だった[16]。サーキット建設に関する話を河野はこの会で初めて聞いたと考えられている(息子の河野洋平の見解)[16]
  15. ^ 河野一郎が参画を決めたのは森への義理立てによるもので、河野本人はレース場自体には特に関心を持っていなかった[28]。森の後任社長の鈴木九平(日本水産元社長)は経団連の有力メンバーで、サーキット建設に専任・専念できる立場ではなく[36]、後見役という形で関わった[37](鈴木も河野との関係からこの役目を引き受けた)。年長者たちがそうした具合で建設計画とは距離を置いていた一方、河野の息子で当時26歳だった洋平は、米国帰りで運転免許も取得したばかりで、自動車に興味を持っていたという時期だったこともあって[28]、サーキット建設に熱心に入れ込むことになる[38]。河野一郎が送り込んだもう一人の副社長として、建設省出身の谷藤正三(後のFISCO 2代目社長)が就任し、技術面の責任者となった[37]。谷藤は京都帝国大学土木工学科出身のテクノクラートであり、FISCO側に建設工事の専門家が他にいなかったこともあって、建設会社との折衝など全般に渡って「その知識と経験はずいぶんとものを言った」という[39]
  16. ^ 河野洋平はサーキット開業後の1966年6月までは副社長を務めた[35]。それまでの間、1965年12月の日本GP開催発表の記者会見や[44]、1966年5月の第3回日本GPの時は副社長を務めている(本人も副社長として日本GPを迎えたことを回顧している[45])。FISCOを去った後、河野は1967年1月の第31回衆議院議員総選挙で初出馬した。以降の河野は、政治家として非常に有名になった反面、政治家となる以前に富士スピードウェイに関わっていたことはあまり知られていない。
  17. ^ 河野一郎の生前も洋平らは資金集めに苦労しているが、河野の口利きで日本開発銀行からの融資があることは時間の問題と考えられていた[35]
  18. ^ 渡辺はこの参画には大成建設への義理立てや、若い河野洋平を助ける意味合いが大きく、三菱地所として自動車レース場を長く所有する意味はなく、いずれは自動車会社なりに渡すべきものだという認識を示している(1967年)[47]。将来的に他者に売却するという腹案があったことで、渡辺は、より良い状態で事業を引き渡せるようにするため、サーキット経営についても真剣に考え、ル・マン24時間レースや欧米のサーキットを視察して回り、熱心に取り組んだ[46]
  19. ^ 三菱地所は富士スピードウェイに隣接する土地を以前から所有し、そこで冨士霊園の経営を行っていた[48]。三菱地所は富士スピードウェイの借地内に建設中だった東富士カントリークラブにサーキット以上に関心を持っており、こちらの建設も引き継ぐことになる[48](同ゴルフ場は渡辺武次郎がコース設計に加わって完成し1967年10月に開場)。
  20. ^ 1976年のレースはFISCO、スポーツニッポン新聞社毎日新聞社の共同主催によって開催されたが、開催が赤字に終わったことが問題視され、スポーツニッポン社は1回の開催のみで主催から降りた[53][54]。一方、F1CAと複数年開催の契約を結んでいた手前もあり[53][55][54]、1977年の開催では、日本自動車連盟(JAF)がFISCO、TBS・毎日新聞社と組む形で日本モータースポーツ協会を設立して、主催者を引き受け、開催が継続された[55][54]。JAFは、当初、FISCOと鈴鹿サーキットに単独主催の話を持ち掛けたが、両サーキットに(赤字開催が目に見えているということで)断られ、日本自動車工業会、自動車メーカー各社からの協力も拒否されたため、やむなく自身の主導で主催することにした[55]。このことは、1977年の事故で批判を浴びたJAFが主催者から降りることの伏線となる[54]
  21. ^ 青年会議所が提出した陳情書は無知と偏見に基づいたもので、この時点では、静岡県側も小山町とよく話し合うよう諭すという穏当な対応をした[58]。しかし、1980年になって、三菱地所が御殿場JCの意を汲む方向で動き出したことで、事態は厄介なものへとなっていった[58]。以降、三菱地所は、サーキットを他の事業に転用しようとしているのは静岡県知事からの要請によるものだという(筋の通っていない)説明を繰り返し行うことになる[61]
  22. ^ 当時のFISCOの経営陣は三菱地所出身者で占められていた。この発表により、三菱地所と静岡県知事の思惑が明らかとなり[64]、関係者は危機感を強めることになる。
  23. ^ 漫画家しげの秀一は『バリバリ伝説』(『週刊少年マガジン』)のタイトル頁で、主人公巨摩郡が「FISCOなくなったら困るぜ!みんなで反対しよう!」と呼びかける形で反対運動に賛同した。
  24. ^ この間、7月7日に静岡県知事に新任の斉藤滋与史が就任している。前任の知事で再選(4期目)を目指さず引退した山本敬三郎(在:1974年 - 1986年)が三菱地所寄りだったのに対して、元衆議院議員の斉藤は自動車産業に理解があったとされ[67]、知事に当選した場合に存廃問題にも影響があるだろうということは、斉藤が知事選への立候補を噂されていた時期から言われていた[67]。実際、山本の退任と時を同じくして、サーキット廃止の動きは突如として消滅した[68]
  25. ^ 株式譲渡前が行われる前は、富士スピードウェイの発行済株式の内、80%(352万株)を三菱地所が、20%(88万株)を大成建設が保有していた[71]。2000年の資本参加発表時点で、49%(215万株)がトヨタ自動車、31%(137万株)が三菱地所の保有という形に変化した(この時点で大成建設の持ち分に変化はない)[71]。その後、第三者割当増資後の株式保有割合は、トヨタ自動車63.11%[61]、三菱地所20%、大成建設13%となる(2002年3月時点)。
  26. ^ 経営参画直後から大改修についての意向を示していた[72]
  27. ^ この工事には、およそ200億円が投じられた[73]。工事による閉鎖期間は1年半に及び、この間の富士スピードウェイ社員の雇用問題は、近傍の東富士研究所をはじめとするトヨタ関連企業に出向してもらう等の方策で、トヨタ自動車が一手に引き受けた[73]
  28. ^ レース運営のための設備もF1開催を見据えて品質が引き上げられており、一例として、計時装置は従来は1/2,000秒単位で計測を行っていたが、セイコーの協力により、1/10,000秒単位の計測が可能なシステムに置き換えられている[74]
  29. ^ 富士スピードウェイ社は富士モータースポーツフォレスト社の完全子会社、富士モータースポーツフォレスト社はトヨタ自動車の完全子会社、という関係。
  30. ^ 元々は飛行機の滑走路にも転用できるよう設計された[41]
  31. ^ 全開のまま進入できるか、ストレートエンドで速度を緩める必要があるかは車種(カテゴリー)によって異なっていた[85]
  32. ^ この時点でマネーペニーは建設計画から離脱していたが、マネーペニーは、現地視察後に作成した設計案で、バンク角を最大14度の緩やかなものとすることを提案していた[37]
  33. ^ アスファルトフィニッシャ―は操縦席やエンジンを15度傾けるという改造が施され[41]、タイヤローラーは最も傾斜が大きい30度の横傾斜の場所で自走すること不可能だったため、2台のブルドーザー(アンカー用と牽引用)を使って横方向に輾圧することで解決した[41]
  34. ^ 同期間にその他の区間でも死亡事故が複数発生している[87]
  35. ^ この年の富士GCで、他のレースは録画放送だったが、この最終戦だけ生中継が行われていた[89]
  36. ^ 富士GCは富士スピードウェイとFISCOクラブによる主催。当時、富士GCは富士スピードウェイの経営を支える屋台骨でもあり、収入の6割を占めていた[90]
  37. ^ 富士スピードウェイの建設当時、最高地点のホームストレートは標高およそ581メートル、最低地点は1コーナー終端付近にあり509メートルだった[41]
  38. ^ 30度バンクは、前半に最大バンク角の30度区間があり、出口付近でバンク角は10度ほどに緩やかになる[41]
  39. ^ 具体的には、1974年7月28日開催の富士1000キロから30度バンクの不使用が全レースに適用されるようになった[23]
  40. ^ トヨタ買収直後の2001年時点でも、全日本F3000選手権フォーミュラ・ニッポンの経験があるジョニー・ハーバートハインツ=ハラルド・フレンツェンペドロ・デ・ラ・ロサは、改修すべき点を問われて、コンクリートウォールの前にタイヤバリアがあるのみの1コーナーや、ランオフエリアが狭い2コーナーについて苦言を呈している[72]
  41. ^ 改修前の100Rはランオフエリアが狭い上、アウト側(ガードレールの先)は崖になっており、安全面の懸念から改修が求められていた[71]
  42. ^ 正式に中止となったレースではチケットの払い戻しや振り替えなどが行われるが、形式上「レース成立」となったレースはチケットの払い戻しは行われなかったため、来場者などから不満の声が上がったこともある。
  43. ^ 豪雨の為レース距離を500 kmに短縮、スタート時間も大幅に遅らしたが、その後濃霧も発生し赤旗の後、レース中止となった。
  44. ^ 濃霧のため決勝レースが2周で打ち切りとなった。詳細は[98]等を参照。
  45. ^ 豪雨とそれに伴う濃霧のためセーフティーカーランのレッドフラッグでレースらしいレースのないまま途中打ち切り、16周で成立。FIA 世界耐久選手権#日本開催
  46. ^ 1999年に再計測され、4.400 kmに改められた。1999年のル・マン富士1000kmもJSPC時代より4周多い228周で争われた。
  47. ^ 地下通路の途中でパドックへの入口(階段)も設けられているが、イベント開催時はパスコントロールが行われる(有効なパスを持っていないと利用できない)。
  48. ^ トヨタ自動車が経営に参画した2000年の時点で、サーキットホテルの必要性についての認識はあったが[72]、具体的な計画はなかった。
  49. ^ 自家用車で走行が可能だが、大型SUVやワンボックスカーなどのスポーツ走行に適さない車種では、本コースを走行することは認められていない[128]
  50. ^ 東富士カントリークラブは富士スピードウェイの誕生過程で設立された施設だが(→#三菱地所傘下へ)、三菱地所は、富士スピードウェイの経営からは手を引いた後も、ゴルフ場の運営会社を完全子会社として維持しており[129]、東富士カントリークラブには関与を続けている。
  51. ^ a b c d かつては大御神レース村に所在[61]
  52. ^ 以前はヘリポートは西ゲート付近に置かれていたが、現在の場所に移設され、跡地は富士スピードウェイホテルの敷地となった。
  53. ^ 撮影は、1969年5月のフジスピードカップに際して行われた[23](映画は1969年7月公開)。

出典

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