孔子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/27 07:25 UTC 版)
思想
孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた(白川静説)。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。
柄谷行人によると、人間社会は、四つの交換様式の組み合わせから成り立ち、一つ目の交換様式Aは「互酬(贈与とお返し)」。人類史で見れば、原始社会や氏族社会は交換様式Aの原理から成り立つ[29]。二つ目は、被支配者は支配者に対して税や年貢を支払い、その見返りとして、生命財産の保護を受け、公共事業や福祉などを通じて再分配を受ける交換様式B「略取と再分配」[29]。三つ目の交換様式Cは、資本主義社会で最も支配的な交換様式である「商品交換」。四つ目の交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である[29]。「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式Dの実現を目指す社会運動が出現する条件は、非常に発展した交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会に浸透していることであり、交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会を包摂しているからこそ、それらを無化し、乗り越えようとする交換様式Dが出現する[29]。交換様式Dは、まず崩壊していく交換様式Aを高次に回復する社会運動として現れる。具体的には、共同体的拘束から解き放たれた自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指す[29]。したがって、交換様式Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗する(交換様式Aと交換様式Bを批判し、否定する)。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらす交換様式Cを批判し、否定する。これこそが交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味であり、中国における孔子もまた交換様式Dを開示したとみられる[29]。
孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方がある[30]。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。
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封号
孔子の没後、孔子に対して時の為政者から様々な封号が贈られた。
時 代 | 贈った為政者 | 封 号 | 年月(西暦) |
---|---|---|---|
春秋時代 | 哀公(魯) | 尼父 | 哀公16年4月(紀元前479年) |
前漢 | 平帝(実質王莽の差し金) | 褒成宣尼公 | 元始元年夏5月(1年) |
北魏 | 孝文帝 | 文聖尼父 | 太和16年2月(492年) |
北周 | 静帝 | 鄒国公 | 大象2年3月(580年) |
隋 | 文帝 | 先師尼父 | 開皇元年(581年) |
唐 | 太宗 | 先聖 | 貞観2年(628年) |
宣父 | 貞観11年(637年) | ||
高宗 | 太師 | 乾封元年1月(666年) | |
武則天(武周) | 隆道公 | 天授元年(690年) | |
玄宗 | 文宣王 | 開元27年(739年) | |
北宋 | 真宗 | 元聖文宣王 | 大中祥符元年11月(1008年) |
至聖文宣王 | 大中祥符5年12月(1012年) | ||
元 | 成宗 | 大成至聖文宣王 | 大徳11年7月(1307年) |
明 | 世宗 | 至聖先師孔子 | 嘉靖9年(1530年) |
清 | 世祖 | 大成至聖文宣先師孔子 | 順治2年(1645年) |
至聖先師 | 順治14年(1657年) | ||
中華民国 | 国民政府 | 大成至聖先師 | 民国24年(1935年) |
注釈
出典
- ^ “孔子廟訴訟、2月判決 最高裁が政教分離判断へ”. 日本経済新聞 (2021年1月27日). 2021年2月6日閲覧。
- ^ “四聖(シショウ)とは”. コトバンク. 2020年6月14日閲覧。
- ^ “「論語」現存最古とみられる紙の写本見つかる 7日から公開”. NHKニュース (2020年10月7日). 2020年12月23日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 『史記』孔子世家
- ^ https://www.afpbb.com/articles/-/2215012 「再び脚光浴びる「孔子の教え」 - 中国」AFPBB 2007年04月22日 2015年11月2日閲覧
- ^ 「孔子 中国の知的源流」p21 蜂谷邦夫 講談社現代新書 1997年5月20日第1刷
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,42-3頁
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,43頁
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,57頁
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,51頁
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,52頁
- ^ 『論語』子罕編。貝塚、62頁。
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,66頁
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年
- ^ 江連隆『論語と孔子の事典』大修館書店、1996年
- ^ a b 江連隆『論語と孔子の事典』大修館書店、1996年
- ^ 「家語」
- ^ 『孟子』『史記』
- ^ 「図説孔子 生涯と思想」p275 孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳 科学出版社東京発行 国書刊行会 2014年12月22日初版第1刷
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,146頁
- ^ 「図説孔子 生涯と思想」p30 孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳 科学出版社東京発行 国書刊行会 2014年12月22日初版第1刷
- ^ 「図説孔子 生涯と思想」p276 孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳 科学出版社東京発行 国書刊行会 2014年12月22日初版第1刷
- ^ 『論語』陽貨第十七
- ^ 『史記』孔子世家
- ^ a b 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,171頁
- ^ 『史記』孔子世家、左伝
- ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,173頁
- ^ 「孔子 中国の知的源流」p45-46 蜂谷邦夫 講談社現代新書 1997年5月20日第1刷
- ^ a b c d e f 柄谷行人『普遍宗教は甦る』文藝春秋〈文藝春秋special 10(1)〉、2016年、131-140頁。
- ^ 吉田亮太『春秋戦国政治外交史』三恵社、2014年、P58-61
- ^ ※この一覧表は、江連隆『論語と孔子の事典』(大修館書店、1996年)を参照し作成
- ^ 論語:郷党第十八
- ^ http://www.cnta-osaka.jp/heritage/temple-and-cemetery-of-confucius_and-the-kong-family-mansion-in-qufu 「曲阜の孔廟、孔林、孔府」中国国家観光局大阪駐在事務所 2015年11月2日閲覧
- ^ 小学館編『地球紀行 世界遺産の旅』p186 小学館<GREEN Mook>1999.10、ISBN 4-09-102051-8
- ^ “공 孔”. 斗山世界大百科事典 2022年11月17日閲覧。
- ^ 孔子の子孫200万人超に、「孔子家系図」9月に出版―中国、エキサイトニュース、2009年1月3日。
- ^ a b 孔子の子孫は200万人…家系図の大改訂で女性含め認定、サーチナ、2009年9月24日。
- ^ 孔子の家系図改訂、子孫は200万人を超える、AFP BB News、2008年2月18日。
- ^ 津曲 2013, p. 1156.
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