大川慶次郎 経歴

大川慶次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 06:17 UTC 版)

経歴

幼少期・戦前

青森県八戸市の大平牧場で競走馬を生産するオーナーブリーダーであった大川義雄(高千穂製紙社長、通称「タイヘイ氏」)の二男として、東京府北豊島郡王子町(現在の東京都北区王子)に誕生した。実業家渋沢栄一の曽孫にあたる[† 2]。また「日本の製紙王」大川平三郎は祖父である。母方の祖父は東京山中銀行取締役のほか日本建物、東京調帯社長などを務めた大村五左衛門[3]

幼少のころより大平牧場や東京の外厩で競走馬を間近に見て育った。また、義雄に連れられて競馬場にも足繁く通い、1938年東京優駿を実際に観戦した[1]最も古いレースとして晩年まで記憶していた。

終戦・大学時代

父の跡を継いでオーナーブリーダーとなることを志したが、太平洋戦争終結後に行われた農地改革の影響で大平牧場は人手に渡ることとなり、一競馬ファンとして生きることを余儀なくされる[† 3]

1947年東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業した。同期生に大島通義岡野行秀越智通雄三浦公亮などがいる。

1948年慶應義塾大学文学部に入学する。本人曰く文学部に進学したのは数学が苦手だったためとしているが、実際には「心理学科だったので、微分積分が出てきて、単位取得には苦労した。」翌1949年、競馬サークル「いななき会」を設立[1]、同会のメンバーであった学生の父親が河野一郎の支援者であった縁から河野を顧問に迎える。これを期に、公職追放中であった河野はしばしば大川とともに競馬場に通うようになり、政界復帰後に馬主・競走馬生産者として活発に活動するきっかけとなった。

サラリーマンを経て新田新作の競馬秘書に

1952年に慶應義塾大学を卒業し、高千穂製紙(後に日本パルプ工業を経て現在の王子ホールディングス)に就職する[1]。しかし会社員生活は性に合わず、考えるのは競馬のことばかり。毎週土曜日になると営業に出るふりをして会社の裏にある場外馬券売り場に馬券を買いに行ったという。結局入社から3年[1]たった1955年に同社を退社し、明治座社長だった新田新作の競馬担当秘書となる[1]。新田と親交のあった百瀬博教は、戦前に鈴木栄太郎関東国粋会副幹事長で生井一家の貸元)の若い衆であった新田は戦後に足を洗って土木建築業の新田組を興し、連合軍ともコネがあり羽振りがよかったとしている。大川のおもな仕事は新田が競走馬を預託する藤本冨良調教師との連絡役であった[† 4]

秘書となった年、新田所有の4歳馬メイヂヒカリクラシックの有力候補であった。しかし皐月賞を目前に控えた時期になってメイヂヒカリの飛節に肉腫ができていることが判明。無理をせずに休養をとらせたい藤本の意を受けた大川は無理にでも皐月賞に出走させようとする新田の説得にあたり、「未来がある馬だから出走させないでくれ。それに大金を投じて馬券を買うファンに迷惑がかかる」と土下座までしてみせた[† 5]。新田は大川の説得に渋々応じたが、療養の甲斐もあってメイヂヒカリは立ち直り、菊花賞ではこの年のダービー馬・オートキツを10馬身突き放す圧勝。その後、翌1956年には天皇賞(春)中山グランプリを制し年度代表馬に、さらに1990年には顕彰馬に選ばれるほどの活躍をした。

日本短波放送の競馬解説者に

1956年に新田新作が死去し、また同時期に別の馬主の依頼で務めていた生産牧場(東北牧場)の牧場長を辞したため無職となる。

東北から上京した大川は、はじめ白井新平に請われて『競週』の予想家となったがまもなく同紙から離れ、手刷りの予想紙(『レーシング・ヒント』)を売る生活を送る。やがて河野一郎の助力を得て、1957年から[2]日本短波放送の解説者となる。このときの恩から大川は河野一郎を「心の師匠」と慕い続けた。

パーフェクト予想達成、「競馬の神様」に

ラジオ出演で知名度が上がったのをきっかけに『ホースニュース・馬』を発行するホースニュース社と予想家契約を結ぶ。1961年9月[1]3日、同紙上で予想家としては初となるパーフェクト予想を達成[1]。たまたま同席していた『週刊読売』の記者がこのことを「競馬の神様のご請託」と題うって記事にし、それに『週刊文春』などほかの雑誌が追従、予想家としての知名度は飛躍的に向上した。大川の妻によると「競馬の神様」という呼称について大川自身は、「競馬の神様だなんて、とんでもない。単に人がつけたニックネームだ。べつに俺は神でもなければ才人でもない、ただの大川慶次郎だ」としばしば口にしていたという[4]

しかしながら、パーフェクト予想達成後に自宅に脅迫電話がかかってくるようになった事や、注目の的になったことによるプレッシャーが原因で予想を外すことを恐れるあまり無難な予想しかできなくなり、極度のスランプに陥ってしまう[5]。本人の述懐によると、このスランプから完全に脱したのは『勝馬』『ダービーニュース』を経て『ケイシュウNEWS』の予想家となった1969年以降のことであったという。

1994年に『ケイシュウNEWS』を去った後はフリーランスになり、フジテレビスーパー競馬』の解説者・日刊スポーツ専属評論家として活動した。また1981年にみずから設立した競馬予想会社・ホースメン会議の総監督も亡くなるまで務めた。

21世紀の競馬を見ることなく死去、最後の予想は的中

晩年は「21世紀初めての競馬を見ることが目標」とたびたび口にしていた。しかし1999年12月15日[1]美浦トレーニングセンターでの調教取材を終え[1]ゴルフを楽しんだあと[1]、寿司屋で会食後に店内で倒れ入院。12月21日[1]高血圧脳出血で死去。享年71(満70歳没)。倒れてから意識を取り戻すことはなかったが、家族が競馬中継やGIファンファーレを聞かせると脳波が強く反応したという。なお、入院後の検査でかつて癌を患った肺の状態も悪化していたことが判明。診察した医者は「よくこの状態で普通に呼吸ができていたものだ」と言ったという。「神さまに戒名なんか要らない」という家族の意向により、大川に戒名はつけられなかった[6]

死の2週間前、ジャーナリストによる取材で「大川さんにとって、競馬とは?」と問われた大川は、次のように答えている。

それは、僕の『天職』です。けっして運命論者じゃなく、むしろごりごりのリアリストである僕が……、これだけは運命論者になっちまう。競馬ははじめから(僕の前に)天職として用意されていたとしか思えません。 — 木村2000、249頁。

この取材で大川は、「暮れの有馬記念を当てて、2000年の第1レースを的中させて……」とも答えていた[7]。大川が予想した優勝馬はグラスワンダーだった。大川の死から5日後、グラスワンダーはスペシャルウィークを際どいハナ差で退け優勝、大川の「生前最後の予想」は見事的中した。数日後、大川家に差出人「グラスワンダー」の花束が届いたという[8]

2000年2月6日東京競馬場内で「大川慶次郎さんの思い出を語る会」が、井崎脩五郎鈴木淑子長岡一也原良馬らが参加して行われた[9]。同年10月11日には大川所縁のタイヘイ牧場に記念碑が建立された。2001年9月には横浜松坂屋の7階に彼の遺品のノートなどを“ご神体”とした「伊勢佐木 勝馬神社」が設けられ、2008年10月に同店が閉店するまで公開された。


注釈

  1. ^ 1日の全レースの連複を当てること。最初の達成は6枠連単(最大36通り)であり、現行の8枠連複(最大32通り)より組み合わせが多かった。
  2. ^ 父・義雄の母が渋沢の庶子にあたる。
  3. ^ のちに大平牧場は「タイヘイ牧場」と名称が変更され、高松宮記念優勝馬サニングデールや名ジャンパー・ゴーカイらを生産した。
  4. ^ 藤本の厩舎にはかつて父親の義雄も競走馬を預託していたため、自身が幼少のころから藤本と交流があった。
  5. ^ 大川にしても、新田が「義理人情に生きる」のが表看板の博徒上がりの点は折込済みの行為であった。
  6. ^ 境勝太郎も「故障の原因の一つは日本から装蹄師を同行させなかったことにある」「休養明けの1997年の天皇賞(春)を-14kgで出走させた事も含め、調教師の腕の問題」という旨のコメントをしている[11]
  7. ^ 境勝太郎も「海外遠征について何ら相談はなかったし、馬を引き渡して以後何の連絡もない」という旨のコメントをしている[11]
  8. ^ 地方競馬やアメリカの競馬では馬名を冠したレース名をつけることが多い。現在JRAが実施する競走で競走馬の名が冠されているのは、シンザン記念セントライト記念共同通信杯トキノミノル記念)、弥生賞ディープインパクト記念(2020年より)のみである。
  9. ^ 開催地を前者は京都、後者は阪神に入れ替えると言うもの。当時の阪神1600メートルは、改装後の今と違い1コーナーポケットからスタートしていたため、内外による有利不利の差が大きかった。また、京都3000メートルも3コーナーまでの距離が阪神の同距離に比べ短く、内外による有利不利の差が大きいコースである。
  10. ^ 当時、東京大賞典を2800メートルで行っていた。
  11. ^ このとき、大川はキョウエイプロミスを本命としていた。同年開催の秋の天皇賞の勝ち方が大川の目に良く映り、この走りならばジャパンカップでも十分優勝を狙えるという見方をしていた。
  12. ^ メジロライアンについては特に思い入れが深かったので叫んだが、後に本人は実況担当の大川和彦アナウンサーが先頭のオグリに集中したため、2番手にライアンが上がってきたことを伝えるためだったとコメントしている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「優駿ヘッドライン『天に召された“神様” - 大川慶次郎さん、死去』」『優駿』、日本中央競馬会、2000年2月、6-7頁。 
  2. ^ a b c d e f 辻谷秋人「名馬に学ぶ新しい競馬常識 Special Interview 競馬評論家 大川慶次郎さん 競馬の神様が語る昔と違ういまの競馬常識」『優駿』、日本中央競馬会、1994年4月、24-25頁。 
  3. ^ 大村五左衞門『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  4. ^ 木村2000、264頁。
  5. ^ a b 『競馬名馬読本2 個性馬たちのバトルロワイヤル』宝島社〈別冊宝島 競馬読本シリーズ〉、1994年3月9日、92-94頁。ISBN 978-4796691932 
  6. ^ 木村2000、273頁。
  7. ^ 木村2000、249頁。
  8. ^ a b 木村2000、274頁。
  9. ^ 「優駿ヘッドライン『惜別の声、後を絶たず。 - 故・大川慶次郎さんの「思い出を語る会」、遺品の展示に来場者多数』」『優駿』、日本中央競馬会、2000年3月、6-7頁。 
  10. ^ 『大川慶次郎が選ぶ「個性派」名馬18頭』(ザ・マサダ発行)
  11. ^ a b 『競馬名馬&名勝負読本'98 ファンのファンによるファンのための年度代表馬'97』宝島社〈別冊宝島 競馬読本シリーズ〉、1998年3月16日、52-57頁。ISBN 978-4796693691 
  12. ^ 名馬づくり60年、40頁。
  13. ^ a b c 鈴木勝「『馴れ合い』のメカニズム」『日本競馬7つのバカ 〜競馬界さま、おクスリ出てます!〜』(第1刷)アールズ出版、2003年11月、182-184頁。ISBN 4901226630 
  14. ^ 倉元一浩「南部杯 ニホンピロジュピタ 大川慶次郎VS井崎脩五郎、レース前の大バトルの軍配は果たしてどちらに?」『競馬名馬&名勝負年鑑1999-2000 ファンのファンによるファンのための年度代表馬』宝島社、2000年3月、198-199頁。ISBN 4796694927 





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