四式重爆撃機 概要

四式重爆撃機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/06 00:51 UTC 版)

概要

航空撃滅戦に適した九七式重爆撃機(キ21)以降の重爆撃機に対する運用思想から、本機も重爆と称されながら同時代・同クラスの他国の機体と比べて爆弾の搭載量は低いが、強力なエンジンによる良好な飛行性能、急降下爆撃に耐える機体強度、長大な航続距離により大戦後期の実戦投入にもかかわらず際立った活躍を見せた。

また、陸軍航空部隊でありながらも連合軍艦艇への効果的な攻撃力が必要とされた結果、四式重爆はその性能を生かして航空魚雷を搭載する雷撃機としても使用された。

実戦に使用されたものでは、日本陸軍が最後に開発した双発重爆撃機である。

特徴

本機の開発に当たり、九七式重爆の欠点の一つであった縦安定性の不良を改善するため、後方胴体を長くして主翼と水平尾翼の間隔を拡げるとともに、降下を継続しても過速に陥る前に自然に機首を上げるよう設計されている[注釈 1]。前方胴体を長くしたのは良好な視界を得るため操縦席をプロペラ面より前に出した結果である[2][3]

艦上爆撃機彗星にも採用された膨らまし舵面(断面を太らせた舵)により小舵が良く効き[4][5]、搭載量を減らした機体に2,000馬力級のハ104を搭載していることもあり運動性能は単発機並と評され、爆弾を搭載していない状態であれば曲技飛行もできると言われた。また、機体も運動性に相当する強度を持っており、重爆にもかかわらず急降下爆撃用の急降下速度計が装備され、600 km/h以上を示しても何ら異常は無かった[1]

プロペラの選定に当たっては一式戦闘機「隼」零式艦上戦闘機に使われていたハミルトン・スタンダード製の油圧式可変プロペラ(陸軍向けは日本楽器製造によるライセンス生産)が性能不足とされ、住友金属がドイツのVDM社からライセンス生産権を得た電動式ガバナーを備えた定速4翅プロペラが選定されたが、構造が複雑なため生産工程数や部品点数が多く、振動対策としてプロペラ翼の厚みを増したことで空力特性がやや犠牲となっている(雷電も同様)。より高性能のプロペラへ換装するため日本楽器製造がライセンス生産権を得ていたユンカース式にフランスラチェ社[6]の機構を組み合わせた「ぺ33」が試作され、生産直前までこぎ着けたが、間に合わなかった[7]

長所のひとつとして長大な航続距離が挙げられる。開発にあたって陸軍から当初メーカー側に示された要求では、航続距離に関しては平凡な性能しか求めていなかった。もっとも、一代前の一〇〇式重爆撃機「呑龍」開発の際に「3,000 kmを上回る航続距離」を求めたという説もあり、真偽については不明の点もある。この要求性能に対して、三菱側はそれまでの経験から航続距離の重要性を認識しており、開発に当たって陸軍の要求を上回る目標を独自に掲げ完成した本機は航続距離3,800 kmとなった。この3,800 kmという航続距離は海軍陸上攻撃機に比べれば劣るものの、それまでの九七式重爆の2,700 km、一〇〇式重爆の3,000 kmに対しては格段に向上しており、その飛行性能や強力な防御武装・防弾装備も相まって海軍にも注目されることとなった。なお、こうした本機の設計に際して三菱の設計陣は一式陸上攻撃機の経験を本機に盛り込んでいる。

九七式重爆・一〇〇式重爆では、左右2席の操縦席のうち右側操縦席は前部の爆撃手席への通路を兼ねており、計器板が大きく切り欠かれて通路が設けられていたため、右側席は省略された計器類が多く、正操縦者席として使用するには難があった。緊密な編隊を組むには、編隊左に位置する機は長機を見やすいよう右側席に正操縦者が位置する必要があり、このため本機では操縦室付近の胴体幅を九七式重爆・一〇〇式重爆より広く取り、左右の操縦席の間に前部銃座等への通路を設ける構造としている。

歴史

四式重爆(キ67)
戦後、アメリカ軍に接収され同国軍の国籍標識が描かれた四式重爆(キ67)。左横は陸軍航空軍P-51

四式重爆の試作1号機は1942年(昭和17年)12月27日に飛行している。後に陸軍から四式戦闘機「疾風」(キ84)と共に「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」として期待され、重点生産機に指定された。

1944年(昭和19年)1月、四式重爆の飛行性能から陸軍は三菱に対し、生産中の四式重爆100機に雷撃装備を搭載するよう命令が下り、試作機2機は横須賀海軍航空隊で海軍の指導の下、雷撃試験が行なわれた[1]。結果は良好で、161号機以降は雷撃装備型が標準型式として採用され、本機は陸軍機でありながら雷撃機としての運用が可能となった。海軍の一式陸攻や陸上爆撃機銀河と異なり、爆弾倉の長さが魚雷より短いため、魚雷は機外懸吊とされた。

451号機以降の機体は後方の12.7 mm機関砲が連装(双連)に変更された乙型キ67乙)となっており(砲架の生産が間に合わず、一部単装の機もあり)、これに伴い450号機以前の機体は甲型キ67甲)とされた[8]

陸軍雷撃隊の訓練は、豊橋海軍航空隊浜松陸軍飛行学校(浜松教導飛行師団)で実施された。1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦を皮切りに、フィリピンの戦い九州沖航空戦沖縄戦菊水作戦)などにおいては、海軍指揮下で運用された陸軍雷撃隊(飛行第7戦隊・第61戦隊・第98戦隊など)が出撃し、四式重爆はその主力として艦船攻撃に活躍した(大部分は夜間雷撃であった)。四式重爆の確実な雷撃戦果としては、台湾沖航空戦において1944年10月14日に飛行第98戦隊の機がアメリカ海軍の大型軽巡洋艦ヒューストンに命中弾を与え、航行不能とさせる大破戦果を残している[9]

なお、海軍では、海軍指揮下の陸軍雷撃隊を「靖国部隊」と呼び、それに所属した雷撃機型の四式重爆「飛龍」のことを「靖国」という名称で呼んだが、これは海軍部隊内部における非公式な通称であり正式なものではない。

1944年春、陸軍の航空関係者は特攻の必要に関して意見を一致し、九九式双軽爆撃機と四式重爆を特攻機に改修することになり、中央で2隊の編成準備を進めた[10]。1944年7月、鉾田教導飛行師団に九九双軽装備、浜松教導飛行師団に四式重爆装備の特攻隊を編成する内示が出た。8月中旬からは九九双軽と四式重爆の体当たり機への改修が秘かに進められた[11]。四式重爆による特攻隊である富嶽隊は、浜松教導飛行師団長川上淸志少将が特攻隊編成の内示を受けると、同師団の第1教導飛行隊を母隊として編成し、1944年10月24日から特別任務要員として南方へ派遣した。全員とも四式重爆の経験は豊富だった。26日、航空総監菅原道大中将が臨席し出陣式が行われ、富嶽隊と命名された[12]。フィリピンに進出した富嶽隊は11月7日早朝に初出撃したが、目標が発見できずに帰還した。最初に特攻が決行されたのは13日で、隊長西尾常三郎少佐以下6名が米機動部隊に突入して戦死した。戦果は確認されていない[13]

1945年4月に完成した体当たり爆弾「桜弾」は、使用機種を四式重爆に限定したが多くは使われなかった[14]。四式重爆の胴体内に桜弾が装着され、特攻機(キ167)として沖縄作戦で使用されている。[15]沖縄戦では飛行第62戦隊に配備され実戦投入し、1945年4月17日に初出撃するも行方不明となる[13]。その後、大刀洗陸軍飛行場から何度かの特攻作戦に出撃したが、戦果は確認されていない[16]

爆撃での使用は、1944年11月12月25、26日に、海軍指揮下で運用中の本機が香取海軍飛行場より出撃し硫黄島経由でサイパン島夜間爆撃を、また1945年(昭和20年)2月には硫黄島に上陸したアメリカ海兵隊に対し、浜松より出撃した飛行第110戦隊(浜松教導飛行師団編成、1944年に編成されていた第2独立飛行隊を12月下旬に本戦隊へ編入)機が夜間爆撃を成功させている(硫黄島の戦い)。これらのほか、飛行戦隊では第14戦隊第16戦隊・第60戦隊・第62戦隊などが本機を装備した。中でも第60戦隊・第110戦隊は沖縄戦に参加し、義烈空挺隊による義号作戦には空挺隊員・飛行隊員搭乗の第3独立飛行隊(九七式重爆改造輸送機12機)の支援・誘導部隊として、先行爆撃や照明弾投下を行っている。

四式重爆は重点生産機種となったため、大量生産を考慮した分割製造方式が採用されており、生産は大府飛行場の三菱重工業知多工場のみならず各務原飛行場川崎航空機岐阜工場などで行なわれたが、日本本土空襲の激化により各地の軍需工場が次々と壊滅し、さらに東南海地震による中京工業地帯の壊滅や工場の疎開などの混乱で製造ははかどらず、終戦までに生産されたのは635機であった[1]。また、エンジンをハ104から強化改良型であるハ214に換装した四式重爆二型となるべきキ67-IIは試作に終わっている。

敗戦直後、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団はフィリピンにて連合軍と会談し最高指揮官ダグラス・マッカーサーによる降伏要求文書を受領、連合軍の進駐詳細や全軍武装解除を中央に伝達するため、8月20日、沖縄の伊江島から海軍の一式陸攻の派生型・一式大型陸上輸送機(緑十字機)にて東京へ飛行中であった。しかし、道中静岡県天竜川河口にて一式輸送機が機体不具合により不時着(全権団は地元住民に救助)、その代替として近隣の浜松陸軍飛行場にあった四式重爆を急遽全権団は使用しているため(21日朝に出発し調布陸軍飛行場に無事到着)、四式重爆は日本の降伏を見届けた機体となった。


注釈

  1. ^ トリムタブ調整により急降下爆撃可能

出典

  1. ^ a b c d e 木村秀政・田中祥一『日本の名機100選』文春文庫 1997年 ISBN 4-16-810203-3
  2. ^ 酣燈社 設計者の証言 下巻 P198
  3. ^ 光人社 軍用機メカシリーズ15 P109
  4. ^ 酣燈社 設計者の証言 下巻 P206
  5. ^ 光人社 軍用機メカシリーズ【15】飛竜/DC-3 P108
  6. ^ 日本国際航空工業がライセンス生産権を得ていた。
  7. ^ やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし - ヤマハ発動機の技と術 - ヤマハ発動機
  8. ^ 『飛龍/DC-3・零式輸送機 軍用機メカ・シリーズ15』光人社、1995年、124,125頁。ISBN 978-4769806851 
  9. ^ 神野正美『台湾沖航空戦 T攻撃部隊 陸海軍雷撃隊の死闘』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年。p.281
  10. ^ 戦史叢書48巻 比島捷号陸軍航空作戦 344頁
  11. ^ 戦史叢書48巻 比島捷号陸軍航空作戦 345頁
  12. ^ 戦史叢書48巻 比島捷号陸軍航空作戦 347頁
  13. ^ a b c NHK「戦争証言」プロジェクト 編『証言記録 兵士たちの戦争〈3〉』日本放送出版協会 2009年
  14. ^ 戦史叢書102巻 陸海軍年表 付・兵器・兵語の解説 373頁
  15. ^ 戦史叢書87巻 陸軍航空兵器の開発・生産・補給 459-460頁
  16. ^ a b 『筑前町立大刀洗平和記念館 常設展示案内』筑前町 2009年
  17. ^ 歴史群像編集部 編『決定版 日本の陸軍機』学研パブリッシング、2011年、59頁。ISBN 978-4-05-606220-5 
  18. ^ 渡辺洋二 『非情の操縦席』 2015年、p.127。
  19. ^ a b 石黒竜介、タデウシュ・ヤヌシェヴスキ『日本陸海軍の特殊攻撃機と飛行爆弾』大日本絵画、2011年、89頁。ISBN 978-4-499-23048-3 
  20. ^ 高木俊朗「陸軍特別攻撃隊」文藝春秋 (1986)
  21. ^ a b 石黒竜介、タデウシュ・ヤヌシェヴスキ『日本陸海軍の特殊攻撃機と飛行爆弾』大日本絵画、2011年、87頁。ISBN 978-4-499-23048-3 
  22. ^ 酣燈社 設計者の証言 下巻 P203






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