上條勝久 上條勝久の概要

上條勝久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/23 22:20 UTC 版)

来歴

宮崎県児湯郡高鍋町出身。旧制高鍋中学校卒。1936年に宮崎県庁に入り、1941年に内務省に転じる。1945年、内務省国土局内務理事官。1957年国土地理院総務部長になる。建設省大臣官房福利厚生課長を経て、1965年建設大学校校長。退官後、全国建設研修センター理事長、日本道路公団顧問を経て、1974年の参院選で宮崎県選挙区から自由民主党公認で立候補して当選。2期務めた。この間、1977年から1978年まで科学技術政務次官、1981年から1982年まで参議院地方行政委員長に就任。1986年の参院選でも立候補したが、無所属上杉光弘に敗れた。1988年春の叙勲で勲二等旭日重光章受章[1]1992年、北海道測量専門学校(後の札幌理工学院)校長に就任。2000年、退職。

2006年、「町民の安全な暮らしや交通網の発達に大きな功績をあげた」として高鍋町名誉町民に推載された[2]2011年12月27日心不全のため神奈川県藤沢市の自宅で死去、101歳[3]。死没日をもって従七位から従四位に叙される[4][5]

エピソード

宮崎県職員時代、当時木城町にあった武者小路実篤の「新しき村」の場所にダム建設が行われることになり、上條は土地収用の交渉に当たった。村に20日間通いつめ、労働を手伝い、夜は文学を語り、当初ダム建設に絶対反対だった実篤に気に入られ、ついに判を押させたという[6]

参考文献

  • 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
議会
先代
亀長友義
参議院地方行政委員長
1982年-1983年
次代
宮田輝

  1. ^ 『官報』号外第53号4頁 昭和63年4月30日号
  2. ^ 高鍋の人物”. 高鍋町. 2012年1月29日閲覧。
  3. ^ “(おくやみ)上條勝久氏が死去 元参院議員”. 日本経済新聞. (2012年1月6日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0600Y_W2A100C1CC0000/ 2022年12月24日閲覧。 
  4. ^ “叙位叙勲”. 日本経済新聞. (2012年1月20日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG20043_Q2A120C1CR8000/ 2022年12月24日閲覧。 
  5. ^ 『官報』第5727号8-9頁 平成24年1月30日号
  6. ^ 朝日新聞社編『新人国記5』(1983年)pp.20


「上條勝久」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「上條勝久」の関連用語

上條勝久のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



上條勝久のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの上條勝久 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS