ユーリー・マルトフ ユーリー・マルトフの概要

ユーリー・マルトフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/06 04:51 UTC 版)

ユーリー・マルトフ
Юлий Мартов
ユーリー・マルトフ
通称 ユリウス・マルトフ
エリ・マルトフ(Л.Мартов
(本名)ユーリー・オシポヴィチ・ツェデルバウム(Юлий Осипович Цедербаум
生年 1873年11月24日
生地 オスマン帝国 イスタンブール
没年 (1923-04-04) 1923年4月4日(49歳没)
没地 ドイツ国 バーデン、シェーンブルク
思想 ナロードニキ共産主義マルクス主義
活動 学生運動労働運動文筆活動
所属 ロシア社会民主労働党メンシェヴィキ
母校 サンクトペテルブルク大学理学部
テンプレートを表示
労働者階級解放闘争同盟に参加しているユーリー・マルトフ(前列右)、左隣はレーニン1897年

生涯

1873年11月24日トルコイスタンブールに中流階級の、ユダヤ人の両親の間に生まれる。祖父のアレクサンドル(1816年ザモシチ – 1893年)は、1860年からオデッサでヘブライ語新聞『Ham-Mēlîtz(主唱者)』を発行していた。父は、ロシア国籍の船会社で事務長を務めた人物。アレクサンドル・ゲルツェンの信奉者で、亡命先であるロンドンにゲルツェンを訪問するほどの自由主義的知識人であった。イスタンブールからオデッサに移り、1881年7歳の時、ポグロムに遭遇する。一家は襲撃からは免れたが、幼年時に体験した反ユダヤ主義は、マルトフをツァーリズムに対する反逆へと駆り立てる契機となった。中学時代は、ベリンスキーに傾倒し、文学や社会問題に熱中した。その後、一家はツァールスコエ・セローに移る。この時期にマルトフは、父が主宰していた知識人と学生のサークルに出席を許可され、ゲルツェンの『過去と思索』に触れ、帝政に批判的になっていく。早熟なマルトフは、次第にナロードニキに共鳴するようになり、1889年には、中学校で学友とサークルを作り、フランス革命史に熱中し、ダントンロベスピエールサン=ジュストらの演説や、マラーグラックス・バブーフの著作を耽読した。

1890年カール・マルクスの『共産党宣言』に衝撃を受け、マルクス主義に転じる。1891年サンクトペテルブルク大学理学部に入学する。翌1892年学内に社会民主主義のサークルを創設する。しかし、大学当局から非合法文献の頒布を理由に退学処分を受け、逮捕される。1年半の投獄生活の後、リトアニアヴィリニュスに追放された。リトアニアでは、ユダヤ人の労働運動に参加した。1895年サンクトペテルブルクに戻り、ウラジーミル・レーニンと共に「労働者階級解放闘争同盟」に参加した。マルトフは1896年1月に逮捕され、1897年東シベリアトゥルハンスク流刑となるが、3年間の流刑生活で結核に罹る。1900年刑期を終了し、西ヨーロッパに亡命した。

1900年1905年、国外でレーニンと共同で機関紙「イスクラискра, 火花)」[1]の発行・編集に携わる[注釈 1]。またパリでは、ロシア高級社会科学アカデミーで講義を行った。

ロシア社会民主労働党第2回大会(1903年)ではレーニンと組織問題をめぐって対立し、以降はメンシェヴィキ派の指導者となった。1905年10月第一次ロシア革命が起こるとロシアに帰国しペテルブルク労働者ソビエトに参加するが、1906年2月、7月に逮捕され9月に再び亡命を余儀なくされる。1907年第5回ロシア社会民主労働党大会(ロンドン大会)と第二インターナショナル大会に参加。レーニン率いるボリシェヴィキとは、第一次革命期を除き、革命に対する戦術やモラルの面で対立が先鋭化し、危険視していた。1911年には党内にボリシェヴィキ、メンシェビキ両派の並立は困難とし、翌1912年ボリシェヴィキはプラハ党協議会で独自の政党である事を宣言するに至った。1917年二月革命後帰国したが、ソビエト政権に反対し1920年に亡命。

亡命後はベルリンに住み、「社会主義報知 Социалистический Вестник」を発行した。バーデンのシェーンベルクで、結核のため死去。49歳。

著作

  • 『ロシア社会民主党史』История российской социал-демократии, 1923(加藤一郎訳、新泉社)

  1. ^ 新機関紙の綱領は1900年5月のプスコフ協議会で決定された[2]
  1. ^ 1859年から1873年に、ペテルブルクで発行された民主主義的な風刺雑誌に同名のものがある。
  2. ^ J・マールトフ『ロシア社会民主党史』新泉社、1976年、P.58頁。 


「ユーリー・マルトフ」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ユーリー・マルトフ」の関連用語

ユーリー・マルトフのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ユーリー・マルトフのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのユーリー・マルトフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS