ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公)の意味・解説 

ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/29 07:48 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ユーリー・ヤロスラヴィチ
Юрий Ярославич
トゥーロフ・ピンスク公
在位 1157年 - 1167年以降

出生 1112年以前
死去 1168年
配偶者 アンナ・フセヴォロドヴナ
子女 一覧参照
家名 リューリク家
父親 ヴォルィーニ公ヤロスラフ
テンプレートを表示

ユーリー・ヤロスラヴィチロシア語: Юрий Ярославич1112年以前 - 1168年頃)は、キエフ大公スヴャトポルク2世の孫、ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチの子にあたる人物である。ピンスク公(在位:1142年頃 - 1148年1154年 - 1157年)。トゥーロフ公(在位:1148/9年 - 1150年1151年 - 1154年、1157年 - 1168年)(トゥーロフ・ピンスク公:1157年 - 1167年以降)。

生涯

1157年、キエフ大公ユーリー1世(ユーリー・ドルゴルーキー)が、トゥーロフ公位にあった自分の子のボリスに変えて、ユーリーにトゥーロフ公国を任せた。ユーリー1世はこの年のうちに死去し、翌年、新たなキエフ大公のイジャスラフ3世が、トゥーロフからユーリーを追い出そうと画策した。しかしこの試みは失敗に終わり、イジャスラフは策の再考を余儀なくされた。1160年、イジャスラフはムスチスラフと連携して、トゥーロフを包囲した。しかし都市を落とせず、今回もユーリーを放逐することはできなかった。1162年、ユーリーは次のキエフ大公となったロスチスラフ1世と講和を結んだ。

年代記における、ユーリーに関する最後の記録は1167年の記述である。また、ユーリーは、トゥーロフ・ピンスク公家の祖となった。

妻子

妻はグロドノ公フセヴォロドの娘アンナ。また、子には以下の人物がいる。

出典

  1. ^ Анна (имя жен и дочерей русских князей и государей) // Малый энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона: В 4 томах. — СПб., 1907—1909.

参考文献

  • Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т. / Автор-составитель В. В. Богуславский. — М.: ОЛМА-ПРЕСС, 2001. — Т. 2. — 816 с.
先代:
ボリス
トゥーロフ公
1157年 - 1167年
次代:
イヴァン



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公)」の関連用語

ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのユーリー・ヤロスラヴィチ (トゥーロフ公) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS