ヤロスラフ・ユーリエヴィチ_(ピンスク公)とは? わかりやすく解説

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ヤロスラフ・ユーリエヴィチ (ピンスク公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/29 07:49 UTC 版)

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ヤロスラフ・ユーリエヴィチ
Ярослав Юрьевич
ピンスク公
在位 1183年 - 1190年以前

死去 1190年以前
配偶者 エフロシニヤ
家名 リューリク家
父親 トゥーロフ・ピンスク公ユーリー・ヤロスラヴィチ
母親 アンナ・フセヴォロドヴナ
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ヤロスラフ・ユーリエヴィチロシア語: Ярослав Юрьевич)は、1183年ピンスク公となった人物。

概要

ヤロスラフは、トゥーロフ・ピンスク公ユーリー・ヤロスラヴィチと、アンナ・フセヴォロドヴナグロドノ公フセヴォロドの娘)との間の子である。また、ニコライ・バウムガルテン(ru)の説では、ユーリー・ドルゴルーキーキエフを治めていた時期に、ユーリー・ドルゴルーキーの孫娘(ボリス・ユーリエヴィチの娘)のエフロシニヤと結婚したとされる。

1183年ピンスク公ヤロスラフは、ゴロデツ公ムスチスラフ、ドゥブロヴィツァ公グレプ等と共に、キエフ大公スヴャトスラフの率いるポロヴェツ討伐軍に参加し、オレリ川の戦いで、コンチャークの率いるポロヴェツ軍を撃破した。

1190年頃に、ヤロスラフの兄弟のヤロポルクがピンスク公として言及されていることから、何人かの歴史家は、ヤロスラフは1190年までに死去したと推定している。

参考文献

関連項目

先代:
ピンスク公
1183年 - 1190年以前
次代:
ヤロポルク



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