分裂の発端
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 18:27 UTC 版)
1903年7月・8月の党大会で党規約を審議したさい、規約第一条の「党構成員の資格」をめぐって、意見の対立が生じた。レーニンは党員の資格を「党の組織の一つに属する人のこと」と規定し、もう一つのユーリー・マルトフから提出された規約案では「党の組織の一つの指導のもとに活動する人のこと」という表現がされていた。 記述の上ではそれほど大きな差はないように見えたが、それ以前からレーニンがその著作『何をなすべきか』で組織され訓練された職業的な革命家たちによる小さな党を提唱していたことはよく知られたことだったので、党大会は規約第一条に関する議論で感情が高まり、できたばかりの党組織を分裂させることになった。レーニンはマルトフの描く党組織像を大衆に開かれた党であるとともに官憲に開かれた党であると論難した。大会の全投票において、反対28・賛成23をもってレーニン案は否決された。 ところが党指導部の母体となる雑誌『イスクラ』編集部をレーニンが制し、さらに党規約第一条のマルトフ案に賛成したリトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟(ブンド)の4名が大会を離脱し、レーニン案を支持したものが残った結果としてレーニン支持者が多数派となった。 さらに『イスクラ』の編集部から古参革命家であるヴェーラ・ザスーリチ、パーヴェル・アクセリロード、ポトレーソフを解任することをレーニンが提案し、今や少数派となった「反対派」がそのことに反発し、新編集局と党中央委員会に自派の候補者を参加させることを拒否した。このときからボリシェヴィキとメンシェヴィキは別々の会議を持ち始め、お互いの誹謗中傷に熱中するようになる。
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