ベルンハルト・フォン・ビューロー ベルンハルト・フォン・ビューローの概要

ベルンハルト・フォン・ビューロー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 15:44 UTC 版)

ベルンハルト・フォン・ビューロー
Bernhard von Bülow
ベルンハルト・フォン・ビューローの肖像写真
生年月日 1849年5月3日
出生地 ドイツ連邦 /  デンマーク
ホルシュタイン公国、クライン=フロットベック
没年月日 (1929-10-28) 1929年10月28日(80歳没)
死没地 イタリア王国ローマ
所属政党 無所属
称号 侯爵Fürst
親族 ベルンハルト・エルンスト・フォン・ビューロー(父)
カール・ウルリヒ・フォン・ビューロー(弟)
サイン

内閣 フォン・ビューロー内閣
在任期間 1900年10月17日 - 1909年7月10日
皇帝 ヴィルヘルム2世

内閣 フォン・ビューロー内閣
在任期間 1900年10月17日 - 1909年7月14日
国王 ヴィルヘルム2世

ドイツ帝国
第4代外務長官
内閣 ホーエンローエ=シリングスフュルスト内閣
フォン・ビューロー内閣
在任期間 1897年10月20日 - 1900年10月23日
皇帝 ヴィルヘルム2世

内閣 ホーエンローエ=シリングスフュルスト内閣
フォン・ビューロー内閣
在任期間 1897年10月20日 - 1900年10月23日
国王 ヴィルヘルム2世
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ベルンハルト・フォン・ビューロー
Bernhard von Bülow
(1870年)
所属組織 プロイセン陸軍
軍歴 1870年 - 1871年
最終階級 陸軍中尉
除隊後 外交官、政治家
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生い立ちと家系

ホルシュタイン、クライン=フロットベック(現在はハンブルクの一部)に生まれる。大叔父のハインリヒ・フォン・ビューローはプロイセン王国の外交官で、1827年から1840年まで駐英公使を務めた。夫人はヴィルヘルム・フォン・フンボルトの娘である。ビューローの父ベルンハルト・エルンスト・フォン・ビューローデンマークおよびドイツ諸国の宮廷に仕え、ビスマルク内閣の帝国外務長官を務めた。また、弟に軍人となり少将まで累進したカール・ウルリヒ・フォン・ビューローがいる。カール・ウルリヒは1914年第一次世界大戦では、騎兵を指揮してリエージュの戦いに参加した。ビューローが英語とフランス語を理解できたのは、幼い頃に家庭教師に習ったためだという。父親はフランス語、母親は英語を話したが、ハンブルクでは珍しいことではなかった。1856年、父エルンストはプロイセン代表としてオットー・フォン・ビスマルクが出席していたフランクフルトの連邦議会に、ホルスタインとラウエンブルクの代表として派遣された。この時ビューローはビスマルクの息子ヘルベルトと一緒に遊んだことがきっかけで、大の仲良しになった。13歳のとき、父親がメクレンブルク=シュヴェリーン大公国の首席公使となったため、一家はノイシュトレーリッツに移り、ベルンハルトはフランクフルトのギムナジウムを経て、ローザンヌ大学ライプツィヒ大学ベルリン大学に入学した。

普仏戦争に志願し、ユサール連隊の伍長となる。後に彼は1870年12月アミアン近郊で戦闘に参加した際サーベルフランスの狙撃兵に突撃し、殺害したことを語っている。その後中尉に昇進し、戦後も軍に残らないかと誘われたが辞退した。1872年グライフスヴァルトで法学を修めた。その後、プロイセン市民局を経て、外交官になった。

外交官

普仏戦争後に官界に入り、外務省に入省する。1876年駐在フランス大使館勤務となりパリに赴任する。1878年ベルリン会議では書記官として出席する。1880年、二等書記官に昇進する。1884年ロンドンへの赴任を希望していたが、ロシア大使館一等書記官としてサンクトペテルブルクに赴任した。赴任の途中、ビスマルク一家のいるバルチノに2、3日滞在している。ビスマルクは、イギリスよりもロシアとの関係を重視していたためビューローをロシア大使に赴任させたという。代理公使待遇となったが、1887年に将来的にドイツ人と武力対立を引き起こすことを懸念して、ドイツ帝国領内からのポーランド人追放を提唱している。1888年ルーマニア王国公使、1893年イタリア王国公使を経て、1897年アドルフ・フォン・ビーベルシュタインドイツ語版の引退をうけてホーエンローエ・シリングスフュルスト内閣の外相に就任する。

外相としてのビューローは、とりわけ皇帝ヴィルヘルム2世の意志を酌み、いわゆる「世界政策」としての植民地拡大政策で大きな役割を果たした。1899年カロリン諸島の領有に成功した際は、その功績により伯爵に叙せられた。


  1. ^ ロシアとの交渉は難航していたところ、日露戦争によりロシア国内情勢が緊迫化したことでロシアからの妥協を得た[1]。日本との不平等な日普修好通商条約(1861年)の解決は、時期宰相下の1911年となった[2][3]


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