シャーリー・テンプル 外交に尽くす

シャーリー・テンプル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/14 18:10 UTC 版)

外交に尽くす

外交関係の職歴はハリウッド映画界のキャリアよりもはるかに長く[注釈 35]、1967年以後、70歳の引退(1998年)の時期まで通算30年間、外交関係の公務および非政府組織NPOの要職に就く。

国際政治では民主主義と複数政党による自由選挙を擁護する。人権侵害に強く反対したことから第二次世界大戦中は独裁者ヒトラームッソリーニ、国内でそれに追随する者に対して、戦後の冷戦期はソビエトの独裁者スターリンとアメリカの信奉者に対して、相いれない立場を強めてきた。背景には第二次世界大戦後の個人的な事情もあるといわれる。住居のある地域が東ドイツに組み込まれたため、母方のドイツ系の遠縁が抑圧を受けたという。

シャーリーは東西の緊張緩和に動き、スターリンを批判したフルシチョフ首相(1958年3月27日 – 1964年10月14日)に対して好意的だった。またフルシチョフ失脚後のソビエトの強権策にも批判的で、1968年のプラハの春」の時期にプラハで国際会議に出席した時の体験が理由の一つに挙げられる。民主化運動をソビエト軍の戦車が蹂躙するチェコ事件が起き、チェコスロバキア人が怒り悲しみ絶望する様子を目撃した[注釈 36]

国連代表委員

1969年から1970年にかけ、アメリカ合衆国の国連大使を補佐する6人の国連代表団に加わり1969年は首都ワシントンのメイフラワーホテルで開かれた国際連合第24回総会に出席。担当は環境、青少年、人権に関わる問題である[注釈 37]

これらを課題とする多くの国際会議で1970年から1974年にかけてアメリカ代表を務め[96]、まもなく持ち前の勤勉さと人間的な魅力で「アメリカ外交の秘密兵器」といわれるほどの優秀な外交官になる[97]。演説の原稿はすべて自分で書いており、日本の一部の情報源には国連で武力によるベトナム戦争の解決を主張したとあるものの国連で演説したのは宇宙の平和利用と環境問題と難民問題についてのみである。中華人民共和国と友好的な立場をとり国連加盟を強く主張、アメリカ政府の首脳部に公式の請願書を送るなど働きかけをした。やがて中華人民共和国の国連加盟 (1971年) と米中国交回復が実現していく[98]

当時アメリカと国交のなかったエジプトで会議に出席したとき、サダト大統領 (在職1971年9月2日 – 1981年10月6日) が突然現れ、自分はファンだ、彼女が主演した『ハイディ』の映画フィルムが欲しいと言った。大統領は自ら「(イスラエルとの) 平和を心から望んでいる最初のアラブの指導者だ」と述べた。シャーリーはこの発言をすぐキッシンジャー国務長官に伝え、帰国後すぐ『ハイディ』の映画フィルムを贈った。やがてアメリカとエジプトの国交回復を経て、1978年、ジミー・カーター大統領の仲立ちでイスラエルとエジプトとの和平が成立する[99]

ガーナへ

その後1974年から1976年にかけて民族主義が強まる時期のアフリカの大国ガーナへ、アメリカ特命全権大使として着任する[注釈 38]。大使の職はアメリカでは政治任用ポストとされ功なり名を遂げた政治家や財界人、高名な学者、有力官僚などの中から任命される。日本のような公務員試験はないが、議会による厳しい資格審査(上下両院の外交委員会での長時間の口頭試問を含む)を経るため任用されないままに終わる者も多い。

アメリカ史において女優から大使になった者はシャーリー・テンプルの前にも後にもおらず、そもそも当時は女性の大使さえ非常に少数だった。彼女がガーナ大使になった時にガーナ人男性の中には女性だという理由で反発する者もいたが、108人のスタッフのトップとして1日17時間働いて仕事をきちんとこなすうち、称賛が反対にとってかわった[101]。それまでの大使とは異なり、民衆の中に飛び込みガーナ人の心を掴むよう努めた[注釈 39]

ガーナ大使時代のエピソードを2つ紹介する。最初のエピソードは着任直後のものである。シャーリーは深夜、大使館の庭で捨て猫が哀れっぽくニャーニャー鳴く声を聞いた。哀れに思い拾って世話をしてやろうと庭に下り、声のする方を探してまわっていると、突然、ガーナ人の庭師が血相を変えて飛び出してきて、彼女を必死に建物の中へ引き戻したという。実は、夜になると近くのジャングルから無数の毒蛇があらわれるので庭に出てはいけないことになっており、子猫の鳴き声と思ったのは猛毒のコブラが餌に襲いかかる時の威嚇音で、シャーリーは噛まれる寸前だったことになる。

2番目のエピソードは、部下の大使館員と一緒に有力部族の大酋長に会いに行った時の話である。ガーナでは相手に靴の裏を見せることは最大の侮辱とされており、決してやってはならない仕草である。ところが、部下の大使館員は話に夢中になって靴の裏がだんだんと大酋長に向き始めた。シャーリーはやきもきして部下の大使館員に身振りで、靴の裏を大酋長に向けないように合図をしていた。そちらに気を取られて大酋長の言葉にうっかりイエスと答えてしまう。じつは大酋長はその時、第三夫人にならないかと言っていた。有頂天になった大酋長に第三夫人にすることをあきらめてもらうため、シャーリーには巧みな外交的な駆け引きが必要だった。

女性初の儀典長

特命全権大使としてシャーリーは高い評価を受けた。ところが1976年、任期の途中でフォード大統領にワシントンへ呼び戻された。前任者の国連大使昇格に伴い、無所任大使として女性初の国務省儀典長に抜擢された(英語:Chief of Protocol of the United States)。ホワイトハウスの全ての儀式の責任者として、また同時にブレアハウス等のアメリカの迎賓館で全ての国賓の接待を取り仕切る役職に置かれた。さらに大統領が海外を訪問する時は大統領専用機で同行し、大統領の右腕として相手国との折衝をまとめた。三木武夫首相訪米の際は接待の総責任者、また1977年にはジミー・カーター大統領の就任式式典を指揮して任期を終えた。 儀典長の手腕も国務省で非常に高く評価され、現在に至るまで最も高名な米国儀典長と評価されてきた[103][注釈 40]。儀典長退任の際、外交官としての功績により特に大使の称号を一生名乗ることを認められた。

1981年のレーガン政権の発足に伴い、ワシントンとパリで大統領就任式の公式祝賀舞踏会が開かれた。パリの舞踏会には夫と共に出席し大統領の名代を務めている。その年、国務省は大使養成機関であるアメリカ外交アカデミー(英語:The American Academy of Diplomacy)を創立し、初代委員のシャーリーは新任の大使とその配偶者を対象に、任地でいかに振舞うべきか、誘拐されたり大使館で爆弾が炸裂したりテロリストに脅迫されたりしたときの対処法など、1989年まで実際的な知識を伝授した[104]。この間シャーリーの教えを受けた大使とその配偶者は146名に及ぶ。

南アフリカ共和国の人種隔離政策アパルトヘイト廃止を目指し、1986年に国務省内で様々な働きかけをし、実現に向けて多くの国際会議で演説をおこなった。これはやがて1980年代後半の国際的な反アパルトヘイトの大きな流れへとつながり、1991年デクラーク大統領がアパルトヘイト撤廃を打ち出し、1994年、アパルトヘイトは完全に撤廃された。

1987年、これらの功績によってアメリカ史上初の名誉外交官の称号を受ける[85]

1990年、チェコスロバキア大使時代のシャーリー・テンプル(62歳)。ビロード革命後のチェコスロバキアに援助物資の医薬品を贈るため輸送部隊の責任者を出迎える。

チェコスロバキアへ

1989年から1992年 まで特命全権大使としてチェコスロバキアに赴任[注釈 41]。東欧諸国の体制が揺るぎ始めたことを察知したアメリカは、激変に備えて東欧諸国にそれぞれ腕利きの大使を配置した。チェコスロバキア在任中に旧東側のスターリン的体制が崩壊すると、シャーリーは民主化を支持して流血の事態が起きないように努め、いわゆるビロード革命が一滴の血も流さないまま成立した[106]。革命後の復興にも全力を尽くして寄与する。

国立機関アメリカ航空宇宙局(NASA)は、女性の社会進出のパイオニアとしてシャーリー・テンプルの記事をホームページの教育向けサイトに掲載、「外交官としての功績は人気子役の時代より、世界のさらに多くの人々に影響を与えた」と紹介、さらに「迅速な判断、機知にあふれ、暖かく優雅な人柄により、アメリカで最も尊敬される外交官の一人となった」と記した。またケネディ・センターは外交官の功績について「アメリカだけでなく世界もシャーリー・テンプルに負うところが大きい」と結論付けている。

非政府組織、NPOの活動

シャーリー・テンプルは米国内外で多くの公的な委員会や非政府組織、NPO団体の委員・評議員も務める。また歴代の大統領や国務長官とともに、アメリカ外交問題の最高のシンクタンクで「影の世界政府」の異名もある外交問題評議会に所属。政治・産業・金融・メディアの各界ならびに教育界のエリートがつどう国際的な非公開会議ビルダーバーグ会議の参加者でもある (en:List of Bilderberg attendeesも参照)。初めて出席した1982年はノルウェー・ヴェストフォル県サンデフィヨルドの高級ホテルで開かれた (ビルダーバーグ会議の開催地も参照)。公職を退いた後も終生、スタンフォード大学国際問題研究所 (en:Freeman Spogli Institute for International Studies) の評議員だった。

生前に委員・評議員などについた組織や団体はつぎのとおり。

外交および社会貢献について、名誉学位授与や特別研究員に遇された。

シャーリー・テンプル修正条項

女性の尊厳を傷つけ、子どもに悪影響を与えるとしてポルノに反対した。サンフランシスコ映画祭の審査員だったときにはスウェーデンからポルノを思わせる作品が出品されたので、審査員を辞任したことがある。ただし彼女は決して芸術的な価値の高いポルノまで反対しているわけではなく、あくまでも金儲けのために乱造された芸術的に無価値なポルノである[108]

また特に子どもの人権を侵すとして、児童ポルノの製造と販売禁止を訴えた。児童ポルノ反対運動により、『労働基準法』への「シャーリー・テンプル修正条項」("Shirley Temple amendment" to the Wages and Hours Law)がアメリカ議会で成立した。これにより16歳以下の子どもを被写体にしたポルノの製造と販売が禁じられる。彼女の努力で、事実上それまで野放し状態だったアメリカの児童ポルノに大きな規制がかけられた。当時はアメリカのポルノ解放論者がシャーリーを強く非難したが、現在では全く影をひそめている。


注釈

  1. ^ テンプル自身、ミドルネームを「ジェーン」とたびたび名乗るものの、出生証明書の記載では「シャーリー・テンプル」である。また出生証明書は幼児と認められる年数を延ばすため、1934年にフォックス・フィルム社と契約した直後に出生年を1928年から1929年に改めてある。それにあわせて生後間もないころの写真も年月を1929年としてあった。21歳のとき、本当の年齢をテンプルが自ら認めている[1][2]
  2. ^ シャーリーの自伝上巻p.304でテンプル家はプロテスタントの長老派清教徒に属すことが示してある。
  3. ^ Dubas(2006年)pp.7-8、Windeler(1978年)p.13。シャーリーの母の著作How I Raised Shirley Temple: By Her Motherも参照。
  4. ^ "As long as our country has Shirley Temple, we will be all right"という一節はケネディ・センターのウェブサイト[10] ほか多くの著書や記事に引用された言葉。この事情に関してはシャーリーの自伝『シャーリー・テンプル』上巻[11]に詳しい。
  5. ^ Dubas (2006年) p.27およびWindeler (1978年) pp.7-28、自伝『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上巻pp.168-172を参照。[20][21][22]
  6. ^ モーアの本は元子役たちの生の声を収録した点で非常に貴重な資料と言えるが、裏付けを取らないまま活字にしているので誤りも多い。
  7. ^ スター子役の保護策をとらなかったMGMではたとえばジュディ・ガーランドミッキー・ルーニーエリザベス・テイラーが幼いうちにセックスと酒を覚えてしまい、成人後も精神的に不安定なまま結婚と離婚を何度となく繰り返した。これに照らせばフォックス社の処置は賢明だったと言え、たとえばやはり1930年代の少女スターの一人で憎まれ役を繰り返し演じたジェーン・ウィザースも精神的に安定した人生を送っている。
  8. ^ 1934年8位、1935年から1938年まで1位、1939年5位、1940年13位[28]
  9. ^ ミュージカル映画ベスト (en:AFI's Greatest Movie Musicals) はアメリカのミュージカル映画の一覧で、「AFIアメリカ映画100年シリーズ[30] の一環として2006年に選出。128位『テンプルの福の神』(20世紀フォックス、1936)、131位に『農園の寵児』(20世紀フォックス、1938)がそれぞれ入賞した[31]
  10. ^ 96位『コットン・クラブ』、98位『ミス・サイゴン』。「傑作ミュージカル100選」(2003) は授賞式の模様をまとめたテレビ映画でチャンネル4テレビ配給、進行役のデニス・ヴァン・オーテンはイギリス出身の歌手、役者、モデルである。舞台および映画で上演されたミュージカルベスト100の順位は一般視聴者の人気投票で決まり、チャンネル4のウェブサイトおよびメールニュースで票を受け付けた。候補作の一覧には作品の特徴を伝える短い動画が添えられ、関係者(俳優・監督・脚本家)あるいは作品を支持する有名人への取材の様子を収めたものも多い[32]
  11. ^ Windeler (1978)pp.110-205の各映画のクレジットの項を参照。[33]
  12. ^ 1937年に20世紀フォックスのシャーリー・テンプル一1人に対して、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーがクラーク・ゲーブルジーン・ハーロウの2人を交換する条件で一旦は貸し出しが決まったがハーロウが急死、代わりに出せる大スターがおらず話は流れてしまった[36]
  13. ^ この事情をジュディ・ガーランドの側から見た文章はデイヴィッド・シップマン著『ジュディ・ガーランド』pp.93-94を参照[37]
  14. ^ ルーズヴェルト大統領[38]、大統領夫人[39]、フーバー長官[40]それぞれの出典を参照。
  15. ^ ある雑誌記者がシャーリーの出ていない号があるかどうか、ひと月に発行された雑誌を調べている。山ほどの雑誌にシャーリーに触れなかったものはなかったという[41]
  16. ^ 20世紀フォックスから出ている日本版DVD『農園の寵児』のカバーに「映画『ザッツ・エンターテイメント』にも収録されたテンプルちゃんの見事な歌と踊り」と書いてあるが、これは完全な間違い。『ザッツ・エンターテイメント』シリーズの収録はMGMのミュージカルだけで20世紀フォックスの映画を含むことはない。かつ収録された作品は『農園の寵児』ではなく『テンプルの愛国者』が正しい。故に『テンプルの愛国者』DVDのカバーは「映画『ザッツ・ダンシング』にも収録されたテンプルちゃんの見事な歌と踊り」と書くのが正解である。
  17. ^ ブラック『シャーリー・テンプル』上p.118参照。この歌「こんぺい糖のお舟」は、現在に至るまで非常に愛されているだけでなく、さまざまなパロディの対象にもされている。
  18. ^ ブラック『シャーリー・テンプル』上p.214、p.251を参照。なお、ディズニーの劇中歌を集めた「シング・アロング」シリーズにはディズニー社の映画の曲以外の歌として唯一、"At the Codfish Ball"を収録。
  19. ^ [56]。ティーン・アイドルとして活躍した時期は第二次世界大戦と戦後の混乱期にあたり、日本で彼女の作品は公開時期を逸したり、かなり後になってから目立たない形で公開されたものが多い。
  20. ^ 幼い頃から演じた役回りは壊れそうな結婚や敗れかけた恋愛を修復するいわば天使、または悲惨な境遇に耐えるいたいけな孤児など[58]、さらに勧善懲悪のパターンに沿って強欲を戒め貧しい者を助ける、高度経済に対する大恐慌から人々を救い出す等おとぎばなしの妖精役[59]が多かった。この性格付けは10代に成長したシャーリーには無理があったことから、従来の「幼児らしい素直さ」を控えめにして、「自然で気取らない」「世間ずれしない純情な」「おちゃめでいたずらな」面を前に出していく[58]
  21. ^ シャーリーは西部劇『アパッチ砦』(ヘンリー・フォンダ監督・1948年)でジョン・ウェインと共演し、配役は夫ジョンの恋人。[62]
  22. ^ 英語:Charles Alden Blackを参照
  23. ^ [71]と英語:Charles Alden Blackを参照
  24. ^ シャーリーの自伝の日本語訳ではこの話の箇所で社交界(society)を「社会」と誤訳したため文章が意味不明になっている
  25. ^ アサートンの町は国内で最も富裕な地区の一つであり、現在はシリコン・ヴァレーのIT企業経営者の家が立ち並ぶ
  26. ^ 1989年にイギリスで出版された書籍Hollywood Lolitaを含む一部の情報源は、子供たちの芸能界入りにシャーリーが猛反対したとしているが事実ではない。一時期、子供3人がテレビ出演に興味を示すと『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』のエピソード「マザーグース」に一緒に出ているし、また『シャーリー・テンプル・シアター』は「ベイブス・イン・トイランド」の回で一緒に司会を務めている。ただし、3人ともそれで満足して関心を示さなくなり、二度と芸能界の仕事に携わることはなかった。
  27. ^ The Red Skelton Show (英語) は日本でもテレビ朝日金曜7時30分枠の連続ドラマの『スケルトン大笑劇場』シリーズとして放送 (1961-1962年)。
  28. ^ たとえばスタジオ・クラシック・シリーズの『テンプルのえくぼ』[86]、『小連隊長』、『テンプルの愛国者』など。
  29. ^ 額面を30ないし50倍すると現在の貨幣価値に相当する。
  30. ^ 『オズの魔法使』で脚光を浴びたジュディ・ガーランドはすでに重度の覚醒剤依存に陥り、映画の撮影所よりも多くの時間を精神科の病室で過ごした。
  31. ^ 1988年にラリー・キングのインタビュー番組で答えたところでは、20世紀フォックスの出演契約料だけでも当時の金額で300万ドル超、加えて契約終了後に信託口座へ積み立て金が入ったという。ところが父がその信託金の名義を変えて取り崩し、さらに残高から税金を差し引かれ、残った信託金はおよそ4万5ドルだったとシャーリー自身が明かした。
  32. ^ 自伝を参照[89]
  33. ^ マクロスキー候補は後に大統領選に出馬したり共和党から民主党に鞍替えしたりした
  34. ^ 英語版のウィキペディアには、ベトナム戦争には賛成したと書いてあるが異論のあるところであろう[90]。マクロスキーのネガティブ・キャンペーンがまだ大きく響いたことは想像にかたくない。シャーリーが裕福なことから、当時流行のミニ・スカートをはかなかったことまで、ことごとく攻撃の材料にされた
  35. ^ シャーリーの自伝(上巻)400ページを参照。シュルツ国務長官が彼女の自伝の後書きを書いたときシャーリーはまだ外交官としての道半ばだった[91]
  36. ^ 日本の一部の情報源には彼女が右翼運動に関係したとあるが、これは自伝の中の「ミニットマン(Minutemen)」という語の誤訳による。1950年代初頭の出来事についてシャーリーは自伝の原書で「私は独立戦争の時代の(英雄的な)民兵たちにならった」と書いており、訳書には「ミニットマン(反共秘密ゲリラ組織)にならった」としている(ミニットマンについてはミニットマン#極右団体を参照)。アメリカ独立戦争の民兵「ミニットマン」と同名を名乗る右翼団体は確かにアメリカに存在するが、創立は1960年代になってからであり彼女の著述とは文脈がつながらない。
  37. ^ 1969年の第24回国際連合年次総会 (1969年9月16日-同12月17日) で決議案について補佐[92]。また同総会の分科会「世界難民問題会議」 (1969年11月19日) にて所見を述べる[93]。アフリカ大陸で増加の一途をたどる難民問題についてアメリカ代表の声明の原稿をしたためると[94]、国際連合難民高等弁務官に迅速な対応を求める決議に影響を与えた[95]
  38. ^ 一部の情報源では「ガーナの親善大使」と述べてあるがこれは全くの誤り。「親善大使」という職名はアメリカ国務省には存在しない[100]
  39. ^ ガーナ大使としてフォード大統領と面談する映像がShirley Temple Black - Meeting With President Gerald R Fordという題名でYouTubeにある[102]
  40. ^ 儀典長就任式当日に大統領ほか閣僚と歓談する映像がShirley Temple Black's Inaugurationという題名でYouTubeに掲載。
  41. ^ [105]
  42. ^ 製作は複数の会社が参加。ディズニーの他 Hartbreak Films、Radio Pictures、Village Roadshow Pictures である。テレビ版は Walt Disney Television (アメリカ)。配給もやはり数社が関わり、最初のテレビ放送権(アメリカ・2001年)に続き、ブエナビスタテレビはテレビ他すべての媒体の使用権。日本の場合はテレビ放送権は WOWOW (『シャーリー・テンプル物語』吹替・2002年) が扱い、その他の媒体は Walt Disney Company が担当。DVD版(2001年アメリカ)はにWalt Disney Home Video、VHS ビデオの権利は Walt Disney Home Video (2001年) である[113]
  43. ^ 1冊目の出版後のインタビューより。[114]
  44. ^ ABCの情報バラエティ番組グッド・モーニング・アメリカ」では特集コーナー「今日はシャーリー・テンプルの80歳のお誕生日」を設けた。少女のコーラス・グループから60代・70代の女性まで、80歳の誕生を祝う人々が全国でシャーリーのテーマソング「On the Good Ship Lollipop 」 (「こんぺい糖のお舟」の原曲) を歌う姿を撮影し、歌詞の節ごとに録画をつなぎ直すと一曲にまとめてある。
  45. ^ 家族は自然死と発表し、検視報告書(2014年3月3日発表)にある死因は喘息およびCOPD[119]。ファンにとって悪い見本とならないよう終生、喫煙していたことを隠したという。
  46. ^ 「げんきなこどもはさむくない」他[133]
  47. ^ 童謡「テムプルチヤン」は歌・飯田ふさ江、武田雪夫作詞、上原進一作曲、奥山貞吉編曲。コロムビアレコード発売。
  48. ^ YouTubeでシャーリー・テンプルが歌う2曲を紹介している「夕焼け小焼け 靴が鳴る シェリー テンプル」”. ポリドールレコード 2409-A. 2015年7月1日閲覧。
  49. ^ ホームページ「まぼろし食料品店」第13回、「日本のお菓子に描かれたる外国の子どもたち」を参照串間努. “日本のお菓子に描かれたる外国の子どもたち”. ノスタルジー商店「まぼろし食料品店」. 2008年8月閲覧。
  50. ^ ローズ・パレードのグランド・マーシャルはGrand Marshal (英語) を参照。グランド・マーシャルの役割の定義は Marshal#Civilian (英語) にあるとおり、「催し物や舞踏会、晩餐会ほかで賓客の到着を公式に告げる役割」つまりパレードのリーダー役のこと。
  51. ^ 後に1980年代にイギリスの女性作家マリアン・シンクレアは著書 Hollywood Lolitas - the nymphet syndrome in the movies で弁護しつつ、男性の観客の深層心理に「アンビバレンツな感情があったのではないか」となかなかうがった見方をしている。ただし性革命の余波が残る約20年前に書かれたため、いささか内容が古いことは否定できない[151]

出典

  1. ^ Burdick 2001, p. 5.
  2. ^ Edwards 1989, p. 23、p. 43.
  3. ^ ブラック 1992a, pp. 22-23、p.29.
  4. ^ Dubas 2006, p. 7.
  5. ^ Edwards 1989, pp. 21–24.
  6. ^ Dubas 2006, p. 7-8.
  7. ^ Windeler 1978, p. 13.
  8. ^ Dubas 2006, p. 8.
  9. ^ 現在、一般的に用いられるシャーリーの出演作のタイトルのうち「テンプル」はもともと旧仮名遣いの「テムプル」と記し、『ハイジ』は『ハイデイ』だった。『テムプルちゃんのえくぼ』は『テンプルのえくぼ』と書き改められている。
  10. ^ シャーリー・テンプル・ブラックの履歴 (英語)”. ジョン・F・ケネディセンター. 2008年3月閲覧。
  11. ^ ブラック 1992a, pp. 24–93.
  12. ^ Dubas 2006, pp. 22–24.
  13. ^ ブラック 1992a, pp. 106–117.
  14. ^ ブラック 1992a, pp. 86–87.
  15. ^ Haskins 1988, p. 23.
  16. ^ ブラック1992a, p. 181.
  17. ^ ブラック 1992a, p. 225.
  18. ^ Windeler1978, p. 90.
  19. ^ シャーリー・テンプル・ブラックの履歴”. ジョン・F・ケネディセンター(英語). 2008年3月閲覧。
  20. ^ a b Dubas 2006, p. 27.
  21. ^ Windeler 1978, pp. 7–28.
  22. ^ ブラック1992a, pp. 168–172.
  23. ^ Burdick 2001, p. 26.
  24. ^ ブラック 1992a, pp. 101–104.
  25. ^ モーア 1987.
  26. ^ ブラック 1992a, p. 104、pp. 229-230.
  27. ^ Windeler 1978, p. 15.
  28. ^ Burdick 2001, p. 23.
  29. ^ ブラック 1992a, pp. 147–424.
  30. ^ AFI's Greatest Movie Musicals ミュージカル映画ベスト(英語)” (2006年9月3日). 2015年6月10日閲覧。
  31. ^ ミュージカル傑作180選の投票用紙(英語)”. 2015年6月10日閲覧。
  32. ^ The 100 Greatest Musicals (2003)(英語)”. UK: Channel 4 Television Corporation (TV) (2003年12月26日). 2015年6月10日閲覧。
  33. ^ Windeler 1978, pp. 110–205.
  34. ^ ブラック 1992a, pp. 155–160.
  35. ^ ブラック 1992a, pp. 277–302.
  36. ^ ブラック 1992a, pp. 312–314.
  37. ^ シップマン 1996, pp. 93–94.
  38. ^ ブラック 1992a, pp. 382–384.
  39. ^ ブラック 1992a, pp. 386–390.
  40. ^ ブラック 1992a, pp. 339–352.
  41. ^ ブラック 1992a, pp. 246–249.
  42. ^ ブラック 1992a, pp. 398–340.
  43. ^ ブラック 1992a, p. 15、p. 208,379.
  44. ^ Bankston 2004, pp. 5–6.
  45. ^ Edwards 1989.
  46. ^ 「『Life』誌1938年7月11日号」(英語)、Life Inc.、1938年7月、ISSN 0024-30192015年6月11日閲覧 
  47. ^ シャーリー・テンプル・ブラックの履歴”. ジョン・F・ケネディ・センター(英語). 2008年5月閲覧。
  48. ^ ブラック 1992b, pp. 34–53.
  49. ^ ブラック 1992a, pp. 68–81.
  50. ^ ブラック 1992b, p. 82.
  51. ^ Windeler 1978, p. 207.
  52. ^ ブラック 1992b, pp. 82–83.
  53. ^ ブラック 1992b, pp. 56–63.
  54. ^ Windeler 1978, pp. 214–217.
  55. ^ ブラック 1992b, pp. 142–147.
  56. ^ ブラック 1992b, pp. 148–274.
  57. ^ a b c d Windeler 1978, p. 72.
  58. ^ a b Balio 1995, pp. 227–228.
  59. ^ Zipes 2000, p. 518.
  60. ^ Haskins 1988, pp. 35–36.
  61. ^ Windeler 1978, pp. 220–253.
  62. ^ ブラック 1992a, p. 199、p.289.
  63. ^ Windeler 1978, p. 71.
  64. ^ ブラック 1992b, pp. 293–309.
  65. ^ ブラック 1992b, pp. 332–337.
  66. ^ ブラック 1992b, pp. 311–313.
  67. ^ ブラック1992b, p. 319.
  68. ^ Windeler 1978, pp. 72–73.
  69. ^ ブラック 1992b, pp. 357–374.
  70. ^ Windeler 1978, p. 74.
  71. ^ Windeler 1978, p. P.80.
  72. ^ Windeler 1978, p. 76.
  73. ^ モーア 1984, p. 342.
  74. ^ Haskins 1988, p. 57.
  75. ^ ブラック 1992b, pp. 337–399.
  76. ^ Windeler 1978, pp. 54–256.
  77. ^ Windeler 1978, p. 255.
  78. ^ Edwards, p. 393.
  79. ^ The Red Skelton Hour (1951–1971)”. IMDb. 2015年6月28日閲覧。
  80. ^ Child Star: The Shirley Temple Story (2001)”. rotten tomatoes. 2015年6月28日閲覧。
  81. ^ Child Star:Shirley Temple Story - IMDb(英語)
  82. ^ Child Star:Shirley Temple Story” (DVD). Buena Vista (2004年5月31日). 2015年6月11日閲覧。
  83. ^ Burdick 2001, p. 112-113.
  84. ^ Edwards, p. 233.
  85. ^ a b c Burdick 2001, p. 136.
  86. ^ 『テンプルのえくぼ』 (スタジオ・クラシック・シリーズ)” (DVD). 20世紀フォックスホームエンターテイメントジャパン (2007年7月6日). 2017年5月30日閲覧。
  87. ^ Edwards 1989, p. 93-94.
  88. ^ ブラック 1992b, pp. 341–355.
  89. ^ ブラック 1992a, pp. 365–370.
  90. ^ a b Haskins 1988, pp. 45–46.
  91. ^ a b ブラック 1992a, p. 400.
  92. ^ 国際連合. “国際連合第24回総会における決議と決定 (英語。第24回国連年次総会報告書付録30号A/7630) GAOR, 24th session, Supplement No. 30: 16 September – 17 December 1969: A/7630”. 2015年6月15日閲覧。
  93. ^ シャーリー・テンプル・ブラック (1969年11月19日). “国際連合アメリカ代表団ブラック氏所見 (記者発表) ――国際連合第24回総会における世界難民問題会議 (英語)”. Mayflower Hotel, Washington, D.C.: 国際連合. 2015年6月15日閲覧。
  94. ^ シャーリー・テンプル・ブラック (1969年12月8日). “国際連合アメリカ代表声明――国際連合難民高等弁務官報告に関する第三委員会 (英語)”. Mayflower Hotel, Washington, D.C.: 国際連合. 2015年6月15日閲覧。
  95. ^ 国際連合 (1969年12月16日). “国際連合第24回総会における第2594 (XXIV) 号決議 (英語、第三委員会議事録A/PV.1835議題No.49。第24回総会報告書p.61収載。記者発表=資料、採択=無投票)”. 2015年6月15日閲覧。
  96. ^ Burdick 2001, pp. 124–126.
  97. ^ 記事中の写真解説は「国際連合総会に出席するブラック代表。1972年、ストックホルムにて」とある。(Photograph: Alain Nogues/Sygma/Corbis) Swaine, Jon (2014年2月11日). “シャーリー・テンプルアメリカ外交の代表として手腕を発揮、世評をくつがえす (英語)”. theguardian. 2015年8月9日閲覧。
  98. ^ Windeler 1978, p. 95.
  99. ^ Haskins 1988, p. 49-50.
  100. ^ Burdick 2001, p. 128.
  101. ^ Burdick 2001, p. 124.
  102. ^ シャーリー・テンプル・ブラック――ジェラルド・R・フォード大統領と面談 (英語)”. 2008年8月閲覧。
  103. ^ a b Burdick 2001, p. 130.
  104. ^ Burdick 2001, pp. 131–133.
  105. ^ シャーリー・テンプル・ブラック氏、在チェコスロバキア特命全権大使の候補 (英語). 「アメリカ参考図書館」Amrican Library. アメリカ軍事政治文庫 (Military & Government Collection). 旧国連図書館Hammarskjöld Library. (1989-06-01). p. 1. 
  106. ^ Burdick 2001, pp. 134–135.
  107. ^ http://www.state.gov/p/io/unesco/
  108. ^ Burdick 2001, p. 119.
  109. ^ Thornton, Michael (2008年4月18日). “シャーリー・テンプル、ハリウッドに子供時代をつぶされたスーパースター(英語)”. デイリー・メール. http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-560626/Shirley-Temple-superstar-childhood-destroyed-Hollywood.html 2012年8月15日閲覧。 
  110. ^ a b c Female Frontiers--シャーリー・テンプル・ブラックさん―アカデミー賞を受けた初めての子役スターからアメリカ初の女性儀典長へ(英語)”. NASA. 2008年3月閲覧。
  111. ^ Temple Black, Shirley. Child Star. McGraw-Hill. ISBN 978-0-07-005532-2 
  112. ^ 上巻ISBN=978-4-5823-7320-2、下巻ISBN=978-4-5823-7321-9
  113. ^ Child Star: Shirley Temple Story (2001 TV Movie)”. Walt Disney Company (2001年). 2008年3月閲覧。
  114. ^ McMurran, Kristin (1988年11月28日). “Shirley Temple Black Taps Out a Telling Memoir of Child Stardom”. Time Inc.. 2015年6月30日閲覧。
  115. ^ シャーリー・テンプルのすばらしい人生80年に寄せて (英語 Homage to the 80 years of Shirley Temple)”. CBS Inc.. YouTube (2008年). 2015年6月28日閲覧。
  116. ^ 今日はシャーリー・テンプルの80歳のお誕生日(英語 Shirley Temple 80th Birthday, Good Morning America )”. ABC. YouTube (2008年). 2015年6月20日閲覧。
  117. ^ 訃報――シャーリー・テンプル (英語 Entertainment & Arts; "Obituary: Shirley Temple")”. BBC News (2014年2月11日). 2015年6月20日閲覧。
  118. ^ Memmott, Mark (2014年2月11日). “シャーリー・テンプル亡くなる――映画界のスター子役から大使に (英語 "Shirley Temple Dies; Childhood Movie Star Became Diplomat")”. National Public Radio. 2015年6月13日閲覧。
  119. ^ Payne, Will (2014年3月3日). “独占取材 シャーリー・テンプル隠れて喫煙 死因は肺の病気か (英語 EXCLUSIVE: Shirley Temple -revealed to be a secret smoker and actually died from lung disease )”. Daily Mail. http://www.dailymail.co.uk/news/article-2570643/EXCLUSIVE-Shirley-Temple-long-time-secret-smoker-died-lung-disease-aged-85.html 2015年6月25日閲覧。 
  120. ^ アメリカン・フィルム・インスティチュートによるDVD『アメリカ映画ベスト100 俳優編』を参照。ただし現在発表されているのは男性25名、女性25名の計50名のみ。
  121. ^ Edwards, p. 355.
  122. ^ Burdick 2001, pp. 132–133.
  123. ^ ジーン・ケリー#受賞歴も参照
  124. ^ Burdick 2001, pp. 133–134.
  125. ^ シャーリー・テンプル・ブラックと第42回全米俳優組合賞生涯功労賞トロフィー (写真) 、受賞スピーチ。 (英語)”. 2015年7月1日閲覧。
  126. ^ 第42回生涯功労賞授賞の理由。現役時代の映像に続いてトロフィーを贈るジェイミー・リー・カーティス (英語)”. 2015年7月1日閲覧。
  127. ^ 第12回SAG賞表彰式 (2006年) でシャーリー・テンプルを紹介するダコタ・ファニング (英語)”. Youtube (2006年). 2008年8月閲覧。
  128. ^ 情報メディアリテラシー団体 http://milunesco.unaoc.org/american-center-for-children-and-media
  129. ^ American Center for Children and Media http://www.centerforchildrenandmedia.org/about/aboutMain.asp
  130. ^ シャーリー・テンプル・ブラック (英語)”. The National Board of Review. 2011年7月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月12日閲覧。
  131. ^ Hamonntree 1998, p. IX.
  132. ^ Shirley Mania”. YouTube. 2015年7月1日閲覧。
  133. ^ ぬりえ美術館 2008.
  134. ^ まつもとかつぢ 2008.
  135. ^ 『獅子文六作品集 第2巻 (悦ちゃん・女軍)』角川書店、1958年、216頁。NDLJP:1356017/113
  136. ^ Dubas 2006, pp. 196–197.
  137. ^ Alex, 2006 & p. 84、p. 85.
  138. ^ アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI). “アメリカ映画ベスト100 俳優編” (DVD). パイオニアLDC. 2017年5月30日閲覧。
  139. ^ アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI) 2002.
  140. ^ アメリカ合衆国農務省 (1951年). “150050, Shirley Temple”. 『植物目録151号』記載の品種(英語). 2015年7月4日閲覧。
  141. ^ amazon.comで販売される一例。Shirley Temple Stand Up And Cheer Deal 17 Inch Doll by Ideal"”. 2015年7月4日閲覧。
  142. ^ Dubas 2006, pp. 75–99.
  143. ^ Bervaldi-Camaratta 2006.
  144. ^ ブラック 1992a, pp. 13–14.
  145. ^ エーリッヒ・ケストナー著『ふたりのロッテ』岩波書店pp. 73-74
  146. ^ 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2004.
  147. ^ ブラック1992a, pp. 127–129.
  148. ^ Bankston 2004, p. 30.
  149. ^ ブラック 1992a, pp. 305–309.
  150. ^ 富士川 2003, pp. 173–174.
  151. ^ Sinclair 1988.
  152. ^ シェリダン 1998a, pp. 348–349.






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「シャーリー・テンプル」の関連用語

シャーリー・テンプルのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



シャーリー・テンプルのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのシャーリー・テンプル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS