シャーリー・テンプル シャーリー・テンプルの概要

シャーリー・テンプル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/14 18:10 UTC 版)

Shirley Temple
シャーリー・テンプル
シャーリー・テンプル(1948年)
本名 シャーリー・ジェーン・テンプル
別名義 Shirley Jane Temple
生年月日 (1928-04-23) 1928年4月23日
没年月日 (2014-02-10) 2014年2月10日(85歳没)
出生地 カリフォルニア州
国籍 アメリカ合衆国
職業 女優外交官
ジャンル 子役司会など
活動内容 映画、テレビ、著作
配偶者 ジョン・エイガー(1945-1950)
チャールズ・ブラック(1950-2005)
著名な家族 リンダ・スーザン(娘)
チャールズ(息子)
ロリー(娘)
公式サイト Official Shirley Temple Web Site
主な作品
ハイジ
輝く瞳
テンプルちゃんお芽出度う
テンプルの福の神
 
受賞
アカデミー賞
アカデミー賞特別賞(1935年)
その他の賞
全米映画俳優組合賞生涯功労賞
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テンプルは1930年代のアメリカを象徴するスター俳優であった。フォックス・フィルム社の子役として登場した時、大物プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンは「シャーリーはいくつになっても素晴らしい才能を発揮するだろう」と語ったと伝えられる。その言葉どおり、女優、政治家、外交官、企業の社外役員など、6歳から85歳で亡くなるまでアメリカの名士であり続けた。なお、シャーリー・テンプル・ブラック大使 (: Ambassador Shirley Temple Black)とも呼ばれた。2014年2月10日、カリフォルニア州サンフランシスコ市郊外のウッドサイドの邸宅で死去。

概説

アメリカで定着したシャーリー・テンプルのイメージは勤勉できまじめ、温かく優雅で品行方正な女性であり、伝説的な映画俳優としても著名な人物である。1930年代から60年代にハリウッド映画界で女優として活躍、特に1930年代に高い評価を得た。たった6歳で伝説的な天才子役と呼ばれ、またしばしばコカコーラ自由の女神と比較されるほど、国外でも知名度を得ていく。10代はアイドルとして芸能活動をつづけ、1950年、幸福な結婚をして映画界を引退。

テンプル自身は人生に「女優、母親、外交官の3つの時代があった」と述べており、映画界の人気スター、10年ほど3人の子供を育てるかたわらテレビ番組に出演した第2期、やがて第3の時期にあたる40代より外交官や数社の社外役員などを務めている。

経歴

家族

映画『Glad Rags to Riches』(1933年)の一場面
子役時代のシャーリー・テンプル(右)とエレノア・ルーズヴェルト大統領夫人(1938年)。アメリカ国立公文書記録管理局提供。写真は夫人にシャーリーが贈ったサイン入りのブロマイドで、実物は現在ルーズヴェルト大統領記念館に展示。
映画『テンプルちゃんの小公女』(1939年)の一場面

テンプル家は厳密にはペンシルバニア・ドイツ人が混ざった家系でありながら、ワスプに数えられた。一族はキリスト教の宗派の長老派清教徒で、代々医者か弁護士か銀行員を職業としてきた。清教徒には伝統的に実業を重んじ、演劇や映画を軽視する傾向があるため、シャーリーが少女スターになった時、一族の反応には複雑なものがあったと伝えられる。

父方の祖父は医師、父ジョージは銀行員(後に実業家)で、娘が生まれたとき当時の大手銀行30社のひとつカリフォルニア銀行のサンタモニカ支店長[3][注釈 2]

母方の祖父はドイツ系の宝石・時計商、母ガートルードは専業主婦である。

2人の兄はそれぞれスタンフォード大学陸軍士官学校を卒業、FBIの幹部と海兵隊の士官を務めている。

生い立ち

1928年生まれ、カリフォルニア州サンタモニカの上品な住宅街で育つ[4]。この州で人生の大半を過ごしており、清教徒らしく勤勉でまじめなうえ、いかにもカリフォルニア生まれらしい、明るく積極的な性格だった[5]

母親は妊娠中、音楽や美しい絵、きれいな風景に接して胎教につとめた。生まれてきた娘が赤ん坊の時からダンスと音楽に強い関心を示したという「シャーリー・テンプルの胎教」のエピソードは、アメリカではよく知られている[注釈 3][6][7]。家庭は円満で両親に愛情を注がれて育つ。栄養を考えた食事、適度な運動と日光浴、規則正しい生活によって3歳までほとんど病気をしていない。既に10代だった2人の兄に手がかからなかったため、母親はもっぱらシャーリーの世話をして一緒に歌ったり踊ったりして過ごした。3歳の頃(1931年)、娘がダンスと音楽に強い関心を示すと母親はメグリン・ダンス学校(Meglin's Dance School)に入学させる[8]。ちなみにジュディ・ガーランドもこの学校の卒業生。

目の色は茶色、髪の色は生後7歳ぐらいまで金髪、8歳ぐらいから赤みを帯びておよそ10歳の時には茶色になった。やがて大人になるとほぼ黒髪といっていい。

少女スター誕生

シャーリー・テンプルの映画の題名については混乱を避けるため、現在販売されているDVDのタイトル他もっとも一般的なものに合わせて記しておく。もちろんウィキペディアの日本語版では『小聯隊長』『テムプルの愛国者』など、戦前公開時の表記を当てるものもある。日本で公開されたときの題名はシャーリー・テンプルの出演作品を参照[9]

1932年から1933年にかけて出演した短編映画はユニバーサル映画社の下請けだったエデュケーショナル社(英語 Educational Pictures)が製作した喜劇のシリーズで、幼児だけが登場する「ベビー・バーレスク」(Baby Burlesks)やManaged Money(1934年・日本未公開)等、十本を超える。

フォックス・フィルム社(20世紀フォックス社の前身)に見出されると1933年に7年契約を結び『歓呼の嵐』に出演、準主役だが高い評価を受ける。次にパラマウント映画社に貸し出されて『可愛いマーカちゃん』の主役をつとめ、一夜にしてアメリカを熱狂させた。さらに『ベビイお目見得』も主演、この作品を見たフランクリン・ルーズベルト大統領は定期的に行うラジオ演説「炉辺談話」で「大不況のさなか、わが国民が映画で見るシャーリー・テンプルの笑顔に励まされ苦労を忘れることは素晴らしい」と全国民に向けて述べている[注釈 4]

6歳にしてフォックス・フィルム社の看板女優になったばかりでなく、映画会社の予測をはるかに超え、たちまちアメリカ映画界で最も人気のあるスターの座へと昇り詰める。一連の作品の成功は大恐慌下のメジャースタジオだったフォックス・フィルム社を倒産から救い[12][13]、『輝く瞳』から『小連隊長』(1935年)へと次々ヒット作が生まれた。

シャーリーの持ち味は、生真面目で勤勉な性格である。映画の出演が決まると撮影が始まる前に必ず台本に載った登場人物全員の台詞を暗記し[14]、台本には書き込みやマーク等は一切しない。決してNGを出さず一回の撮影で監督を満足させたことから、ジョン・フォードに「一回撮りのシャーリー」("One-take Shirley") と褒められるほどだった[15][16]。決して遅刻をせず予定より少し早めにセットに入る几帳面さは成人してもそのままで、終生、時間に正確だった[17][18]

アメリカの国立機関ケネディ・センターは次のように称えている。

「シャーリー・テンプルには最初から映画のカメラに愛されるなにかがあった。輝く瞳に巻き毛、魔法のような存在感と溢れる魅力――そして驚くべき才能である。」[19]

1930年代の5、6歳の子役で大人のプロダンサーでも難しいステップを楽々と踊り、正確な音程とリズムで難しい曲を歌い、気難しい批評家すら唸らせる絶妙な間合いで台詞が言えて自然な演技が出来る者は、彼女しかいなかったといえよう。映画監督のデイヴィッド・バトラーが「あの子と話をした者はみんな人柄に感動した」と語ったとおり、生まれつき人々を惹きつけ相手の心を明るくしてしまう強い魅力がシャーリーにはあり、どんな時でも快活で不機嫌そうにしたりすねたりグズったりしたことはない。1930年代に「世界最高のタップ・ダンサー」と言われた俳優ビル・ボージャングル・ロビンソンは、「神様はシャーリーを唯一無二の存在として創られた。あの子に続く者は二度と現れないであろう」と述べている。

少女スターとしての成功

『可愛いマーカちゃん』(Little Miss Marker・1934年・日本未公開)のころのこと。両親とホテルに滞在していると紳士が近づいてきて、この街のカトリック教信者を代表する者だと名乗り、シャーリーにメダルをあげましょうと声をかけた。シャーリーはおもちゃのメダルを集めていて、ほしいと答えると男性は彼女を抱き上げてホテルの大広間へと入っていく。両親とフォックスフィルム社の広報担当が止める間もなく、数千人の信者が集まる会場の真ん中を抜けると、シャーリーを連れてステージに上がりメダルを授与した男性は、何か挨拶をしてほしいと頼んだという。

両親もフォックスの担当者も真っ青である。まだ有名になるかならないかという時でもあり、こんな時どうふるまえばいいか誰も教えていない。たった5歳の子供になにができるだろうかと固唾を飲んで見守るほかなかった。すると、笑顔でメダルのお礼をして「大会が成功しますように」と述べ、「皆さんが大好きです」と投げキスで結んだという。心に浮かんだまま、しゃべったこの言葉に、大きな拍手は鳴り止まなかった。両親はホッと胸を撫で下ろし、ステージから降りるところを待ち構えていた担当者は感に堪えない様子で「君に教えなきゃならないことはもう何もない。いつだって自分をそのまま出せばいいよ」と言った。こうしてシャーリーはどんな時にも自然な自分を出すことで、アメリカのファンに感動を与え続けた。

そのころ受け取ったファンレターは週に4000通以上。同じ時期、アメリカで最もファンレターの多いスターである。たちまち週1万通を超えるとフォックス社はフルタイムの専属秘書を10人付けている。サインを求められることも多く、あるクリスマスの時期に母親とデパートに行ったところ、アルバイトのサンタクロースがサインをほしがったという。サンタクロースはほんとうにいると信じていたのに、このときからそう思わなくなったと後に語っている。

『可愛いマーカちゃん』公開の翌年、映画界であげた功績に対してアカデミー賞特別賞を受賞。初のトーキー映画を公開したワーナー・ブラザースチャーリー・チャップリンウォルト・ディズニーについで4番目である。シャーリーはこのとき6歳、アカデミー賞のすべての分野における最年少記録は2015年現在も破られていない[注釈 5]。午前1時半過ぎにようやく授賞の番が巡ってくると、大人でも仕事の疲れで眠いはずであるが、にこやかに受賞の挨拶を済ませている。ところがステージから降りて母親に「ママ、もう帰っていいの?」とささやいた声がマイクに拾われて会場に大きな音で流れてしまった。会場は爆笑に包まれ、やがてこんなに幼い女の子が疲れや眠気を全く表に出さないことを称えて拍手喝采を送った。

母のガートルードは映画デビューした娘にぴったりと付き添い、「映画界の悪い影響」を受けないように守った[23]。フォックス・フィルム社も同じく保護が必要だと認め、撮影所内に専用の家とおもちゃを用意している。会社は他の子役や裏方と遊ぶことを禁じた。法律上、1日4時間しか働かせてはならないため仕事に専念させたがり、切実な事情として西部劇のウィル・ロジャースの事故死で看板俳優を失ったことからシャーリー・テンプル一人に社運を託すほかはなく、子役や裏方と遊ぶうちに病気や怪我をしないかとひどく用心した。成功を妬んだ他の子役の母親が硫酸を顔に浴びせようとしたり、毒入りのキャンディーを送りつけたりしてからはなおさらである。『輝く瞳』で共演した子役のジェーン・ウィザースとも友だち付き合いはなかった。撮影のとき、毎日シャーリーが彼女に物真似でからかわれ、撮影の本番では台詞を先回りして横で大声で言われ、とても演技がやりにくかったという理由による[24]。ディック・モーア『ハリウッドのピーターパンたち』[25]の中でジェーンは、シャーリーの母親のせいで共演は二度となかったと述べているが事実ではなかったらしく、1985年に全米に放送されたテレビ番組で自ら訂正した[注釈 6]

撮影所では仕事が4時間、勉強が3時間。1時間の昼休みにさえ名士の訪問を受けることもしばしばだった。帰宅は毎日4時か5時ごろで夕食まで近所の子供たちと遊び、最も親しかったのはナンシー・メジャーズ。夕食後はごく普通に遊んだりラジオを聴いたり、家のお手伝いをしたりして、寝る前には必ず次の日の撮影の準備をした。母ガートルードも会社も他の早熟な子役から悪い影響を受けて「品行方正な子供」というイメージに傷がつかないように心を配り、彼女は大人に守られ明るく品行方正に育った[注釈 7]

フォックス・フィルム社は20世紀映画会社と合併、1935年から20世紀フォックス となる。合併祝賀パーティの席上、ある脚本家が6歳のシャーリーを抱いて「高い高い」をしたところ、パーティの出席者全員、怪我をさせるのではと恐怖で凍りついた。そのとき両手で高く差し上げている少女は会社の全財産にも等しいと気づくと、脚本家は恐ろしさにめまいを起こして危うく彼女を取り落としそうになったという。

看板俳優の座を継いだシャーリーにはスタンドインが付き、マリリン・グラナス (Marilyn Granas) やメリー・ルー・イズライブ (Mary Lou Isleib) 等が務めた。初期の担当だったマリリンは1歳年上、以前にベビー・バーレスク作品(The Kid's Last FightKid in Hollywoodほか)で競演した仲である。『ベビイお目見得』(Baby Take a Bow・1934年)や『輝く瞳』ほかのスタンドインを務め、やがてキャスティング・ディレクターに転身。メリー・ルー・イズライブはマリリンの後に付き、撮影所では他の子役から離されたシャーリーにとってただのスタンドインではなく、学友であり親友でもある。シャーリーは小学校入学の年齢になっても通学はせず、20世紀フォックスの撮影所で専任の家庭教師を付けられて数学年上の授業内容を勉強したという。6歳のときの知能検査でIQは10歳相当。12歳では155以上、「天才」の範疇に分類される評価である[26]

子役の少女は成長するとマーガレット・オブライエンナタリー・ウッドテータム・オニールのようにどこか影のある子供あるいはブルック・シールズジョディ・フォスターなど妖艶さが売り物という性格づけがされる。しかしシャーリー・テンプルは20世紀のアメリカ映画唯一の大物少女スターとして、どこまでも純粋で無邪気で明るく、子どもらしい子どもを演じ続けた[27]

ハリウッドの頂点へ

20世紀フォックスと契約以後、シャーリーが会社にもたらした興行収益は1930年代当時の金額で3000万ドル以上と言われる。1930年代、アメリカ映画界最高のスターであり、1935年から1938年まで4年連続で興行収益1位という歴史的な記録を打ち立てる。これは子役としては不動の記録であり1940年代に史上最高の5回を獲得したビング・クロスビーに破れるものの、女優でこの記録を抜き去る者は2009年にいたるまで現れていない。また他のスターは俳優業に一生を捧げ、その総決算として興行収益トップの座を手に入れるのであって、彼女のケースは10歳未満で易々と4回も取ると別の分野に転進して顕著な功績を挙げ、非常に際立っていると言えよう[注釈 8]。なお20世紀フォックスを含む日本の一部の情報源にはシャーリー・テンプルの映画1作品あたりの出演料が100万ドルだと述べてあるがそれは完全な誤り。女優の映画1作品あたりの出演料が100万ドルになったのは1960年代、エリザベス・テイラーの『クレオパトラ』(20世紀フォックス)やオードリー・ヘプバーンの『マイ・フェア・レディ』からである。出演料トップのシャーリー・テンプルさえ、1930年代は10万ドルである。

この時期の代表的な映画作品には上述に続きファンの多いものが連続していて、一作ごとの成功の詳しい事情はシャーリーの自伝上巻pp.147-424を参照のこと[29]。このうち『テンプルの福の神』と『農園の寵児』は公的機関であるアメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) が「ミュージカル傑作180選」(ミュージカル映画ベスト)に選んだ[注釈 9]。また『輝く瞳』は正確に言えば準ミュージカルであり、イギリスのチャンネル4テレビが選ぶ「傑作ミュージカル100選」 (2003) の97位を占める[注釈 10]

この時期、ゲイリー・クーパースペンサー・トレイシーキャロル・ロンバードジャネット・ゲイナーフランク・モーガンライオネル・バリモアアリス・フェイランドルフ・スコット等、錚々たるトップスターと共演している[注釈 11]。また世界最高のタップ・ダンサーといわれたビル・ボージャングル・ロビンソンとの共演は特筆すべきで、この二人はアメリカ史上初の黒人と白人のダンス・ペアである。彼女は共演した相手の中でロビンソンが最も好きだったと語った[34]

有名なユーモア作家アービン・コッブが「(子供たちへの)サンタクロースの最大の贈り物」と呼んだように、シャーリーは世界中の少女から熱狂的に支持された。アイデアル社(Ideal Toy Company)が発売したシャーリー・テンプル人形は爆発的な売れ行きを示し、シャーリー・テンプルにちなむ少女向け子供服やアクセサリーも飛ぶように売れ、アメリカ・ヨーロッパ・日本だけでなく文字通り世界中の少女たちがこういう商品を欲しがった。その陰でシャーリーは何度か誘拐事件がらみの脅迫を受けたり、気のおかしい女性から射殺されそうになったりしたが、いずれも間一髪で難を逃れた。

1937年にニューヨーク・タイムズはシャーリーを「アメリカ国民の天使」に選出。同じ年に『テンプルの軍使』が撮影され、ガッツを見せて長くジョン・フォード監督に高く評価された。後にフォードは彼女の長女の名付け親にもなる[35]。『テンプルの軍使』については大物小説家のグレアム・グリーンが9歳のシャーリー・テンプルに中年男性の観客は欲情を感じるという趣旨の批評を書き、イギリス世論の怒りと20世紀フォックスの告訴を招いた(この件に関しては後述の「グレアム・グリーン事件」を参照)。

1939年の『オズの魔法使』のドロシー役もシャーリーが演じる予定だった。非公式にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーがカメラテストをして衣装をつけて主題歌を歌わせてみたところ出来が素晴らしく、ルイス・メイヤー社長は彼女以外にこの役を演じられる者はないと惚れ込んだ。しかし20世紀フォックスとの話し合いがつかず[注釈 12]、結局ジュディ・ガーランドに役が回った[注釈 13]。 だがシャーリー個人の語る降板理由は、アシスタントプロデューサーのアーサー・フリードがまだ12才だった彼女が一人でフリードの部屋に面接に入った時に、彼は下半身を出して陰部を見せ付けたというセクシャルハラスメントがあったことが原因だと自伝で明かしている。 フリードは女優相手に「キャスティング・カウチ(セックスをした相手に役や契約を回すこと)」を頻繁に行う悪名高いな人物であった。

フリードにような倫理観に乏しい人物の魔の手を逃れたシャーリーは、もはやただの少女子役にとどまらず、「アメリカン・イノセンス(無垢なアメリカ)」の象徴となった。

無垢なアメリカの象徴

アメリカ国内外の名士が頻繁にシャーリーと顔を合わせた1930年代、フランクリン・ルーズヴェルト大統領と社会運動家のエレノア夫人はじめ、アインシュタインからH・G・ウェルズフーバーFBI長官まで、政治家や著名人と知り合う[注釈 14]。ルーズヴェルト大統領就任式(1933年)では膝に乗り「ハッピーバースデートゥーユー」を歌って新しい大統領の誕生を祝っている。

人気がどれほど過熱したか伝えるエピソードは数え切れない。雑誌やニュース映画に毎号、大きく取り上げられ[注釈 15]、旅先のボストンで熱を出して寝込んだときなど、新聞各紙の一面トップに大見出しが踊り、テレビでは相次ぐニュース速報。宿泊先のホテルは病状を案じる1万人以上もの大群衆に囲まれてしまう[42]。また1935年12月に家族旅行でハワイを訪れたおりには、シャーリー・テンプルの姿を一目観ようと行く先々に押し寄せた人々が10万にも達したという。ハワイ到着予定の日、州内の公立学校が臨時休校になる騒ぎだった。彼女の言葉は頻繁に新聞の見出しに取り上げられ、「シャーリー・テンプル語る 喫煙は悪い習慣」、「シャーリー・テンプル ムッソリーニに占領地エチオピアから退去を命令」などと書き立てられた[43]

明るく健気、楽天的で清楚というイメージのシャーリーは国民の誇りであり、また大恐慌に直面する人々の心の支えとなる象徴的存在となった[44]。作家のアン・エドワーズはほぼ同世代のエリザベス英国王女(後のイギリス女王)と対比させ、シャーリーはある意味「アメリカの王女」であり「敬意をもってうやうやしく」扱われたと述べている[45]。実際、1930年代以来「アメリカのプリンセス」と呼べる存在がいるとすればシャーリーをおいてほかにないと言われてきた。初めて表紙を飾った『ライフ』誌1938年7月11日号 [46]には既に「プリンセスさながらの独得の地位を自然に受け入れている」という記述がある。

少女スター時代の映画について

ケネディ・センターは「子供のとき、彼女は歌とダンスでアメリカ的精神を体現し、アメリカ人に計り知れないほどの喜びと希望を与えた」と述べている[47]。少女スター時代に出た映画は家族向けで、『足長おじさん』や『小公女』、『少女レベッカ』など人気の少女小説の映画化が多い。ヒロインはたいてい当時の児童文学のパターン通り明るく健気な孤児の少女という設定である。また多くの作品はディズニーの長編アニメと同様にミュージカル仕立てで、当時の英米の児童劇の伝統に則ったものである。

ミュージカル作品はシャーリーの映画の呼び物の一つで歌い手として魅力的であり、さらに踊り手として非常に優れたタップダンサーで、フレッド・アステアエレノア・パウエルと並ぶ1930年代を代表する大スターに加えられる実力の持ち主だった。『歓呼の嵐』と『ベビイお目見得』でジェームズ・ダンと共演、『テンプルちゃんお芽出度う』ではピアノの上でソロで踊ってみせ、『小連隊長』や『テンプルの愛国者』と『農園の寵児』で組んだ相手はビル・ロビンソン。『テンプルの灯台守』の踊りの相手はバディ・イブセン、『テンプルの福の神』で共演した相手はアリス・フェイとジャック・ヘイリーであり、『テンプルの上海脱出』でフレッド・アステア人形と踊り、『天晴れテンプル』でジョージ・マーフィーとの踊りが有名である[注釈 16]

劇中歌は『輝く瞳』で歌った「こんぺい糖のお舟」(On the Good Ship Lollipop)が特に有名で大ヒットし、その後、彼女のテーマソングになる[注釈 17]。劇中で歌われたものはヒット曲が多く、たとえば『テンプルちゃんお芽出度う』で歌った"Animal Crackers in My Soup"(Animal Crackers in My Soup)、『テンプルの愛国者』の"Polly Wolly Doodle"、『テンプルの福の神』から"Oh, My Goodness"、『テンプルの灯台守』は"At the Codfish Ball"、『テンプルの上海脱出』"Goodnight, My Love"(Goodnight My Love)、『農園の寵児』で歌った"An Old Straw Hat"である。2009年現在においても彼女の歌は愛され、欧米でCDの全集と選集を発行し続けている。アメリカの小学校の音楽の教科書に載り、幼稚園でも歌わせている[注釈 18]

少女スター時代をめぐるシャーリーの思い

ほとんどの子役スターは、ハリウッドの子役時代に対して何らかの心の傷を抱えている。しかしシャーリーは、ハリウッドという危険な虎の穴に入って、その体験を楽しみ、けろりとして無傷で出てきたほとんど唯一の存在だった。その時期を振り返り、おごることなく慎ましやかに語っている。

「私は最高の子供時代を過ごした。神話や小説とかの素晴らしい物語を読んでもらう代わりに、実際に物語の中で生きることが出来たのだから。幼い頃母は雑誌や新聞に私の記事が載ると、私の目に触れないようにしていた。後に、もし読みたいなら読んでもいいと認められたのだが、二、三の記事を読んだだけで止めてしまった。確かに私について書いてはあるものの、他の人が作り上げたシャーリー・テンプル像で、たいていは理想化してあったからだ。私はプリンセスではないし女神でもないし、なりたいとも思わない。最高の人生を送ってきたのは運がよかったのだし、映画で人々に喜びをもたらしたと思いたい。その反面、チャンスがまわってきたのは運命つまりタイミングのいたずらだと感じている」。

ティーン・アイドル・スター

やがて思春期になると子役として微妙な時期にさしかかる[48]。本来は13歳で中学校へ進むところ、成績優秀のため12歳でアメリカ最難関の私立中高一貫校(プレップ・スクール)の一つに飛び級で入学。したがって高校卒業は18歳ではなく17歳である。学校はウェストレイク女子校(Harvard-Westlake School)といい、多くの優れた人材を送り出すことで定評があった[49]。授業が始まると夏休みだけ映画の撮影にあて、残りの時期は学業に専念し始める。主演作『青い鳥(1940年リメイク版)』のプレミア試写会に出席して舞台挨拶と記者会見をするように会社に命じられても校長の許可が出なかったと仕事を断わり、20世紀フォックス幹部を唖然とさせた[50]

1944年、第12代カナダ首相ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングWilliam Lyon Mackenzie King)と(ティーン・アイドル・スター時代)。
1944年、カナダ首相キングと。

20世紀フォックスの最後の2作品『青い鳥』と『ヤング・ピープル』は興行的に赤字である[51]。『青い鳥』はMGMの『オズの魔法使』の大成功を受けて急いで作られ、大作だが脚本の象徴主義が時代を先取りしすぎて観客には理解できない部分があった。さらにグリム童話の雰囲気を出そうと衣装や小道具をドイツ風にしたところ、おりしもナチス・ドイツのポーランド侵攻が勃発し観客の不興を買い、脚本もシャーリーのイメージと大きくずれていると受け取られる。『ヤング・ピープル』も筋立てがひたすらセンチメンタルでお粗末である[52]。ただし彼女の回想録によれば『青い鳥』は1970年代になって再評価の動きがあったという[53]

フォックスからMGMに移っても在籍は10か月ばかり。1940年代のMGMは、『オズの魔法使』にシャーリーの出演を切望した1930年代とは大きく様変わりしていた。かつて売り物はルイス・B・メイヤーアーサー・フリードロジャー・イーデンスのラインで製作されたミュージカルだったが、彼女が加わったときはすでにルイス・B・メイヤーの子飼いのジュディ・ガーランド(『若草の頃』)やキャスリン・グレイソン(『錨を上げて』)やラナ・ターナー(『美人劇場』)の全盛期であり、13歳の新参者にはグレイソンが断った低予算で脚本にも魅力のない『キャスリーン』(Kathleen) が回ってきただけである。もっとも子役とティーンの中間の時期、なかなか合う企画がなかったとも言えるかもしれない。移籍先のデヴィッド・O・セルズニックのプロダクションは一切ミュージカルを作らなかったため『キャスリーン』が最後のミュージカル作品である[54](シャーリーの自伝下巻pp.99-127も参照)。

プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニック(『風と共に去りぬ』他)のプロダクションはアメリカで最高の品質の映画を作ると定評があった[55]。当時はユナイテッド・アーティスツ映画社と密接な関係にあり、同時にどの映画会社とも取引があった。セルズニックはジェニファー・ジョーンズと大恋愛の最中で一番よい娘役(たとえば『ジェニーの肖像』や『聖処女』)はジェニファーに回る。シャーリーも映画界でたった数人のティーン・アイドルの一人として立派に成功をおさめていく[注釈 19]。セルズニックのもとで撮った作品はすべて黒字である[57]

ただし品が良すぎ、皆から愛される天真爛漫なティーンは上手に演じられてもセクシーさやダークな面はどうしても出せない。役柄は極めて限定されて「明るい健全な夢見るティーン」タイプ[注釈 20]。1930年代に無垢なアメリカの象徴になったためそういう役は演じにくかったことも事実で、観客はセクシーなあるいはダークなシャーリーを見たいとはどうしても思わなかっただろう。ワーナー・ブラザースに貸し出し中に撮った『That Hagen Girl』(1947年・日本未公開)の台本に相手役のロナルド・レーガン(後のアメリカ大統領)から「アイ・ラブ・ユー」と言われる台詞があったところ、イメージにそぐわないと判断してその台詞を削らせたほど、ワーナー・ブラザースは気をつかった[60]。品行方正なスターという評判はとても高く、有名なゴシップ記者でスターのスキャンダルを暴くルエラ・パーソンズヘッダ・ホッパーですら常に賞賛したほどである(このふたりはジュディ・ガーランドの薬物依存、ディアナ・ダービンの「不倫」等をスクープした)。

ティーン・アイドル時代、彼女自身が最も気に入た作品はコメディ『接吻売ります』(Kiss and Tell) だったという[61]


注釈

  1. ^ テンプル自身、ミドルネームを「ジェーン」とたびたび名乗るものの、出生証明書の記載では「シャーリー・テンプル」である。また出生証明書は幼児と認められる年数を延ばすため、1934年にフォックス・フィルム社と契約した直後に出生年を1928年から1929年に改めてある。それにあわせて生後間もないころの写真も年月を1929年としてあった。21歳のとき、本当の年齢をテンプルが自ら認めている[1][2]
  2. ^ シャーリーの自伝上巻p.304でテンプル家はプロテスタントの長老派清教徒に属すことが示してある。
  3. ^ Dubas(2006年)pp.7-8、Windeler(1978年)p.13。シャーリーの母の著作How I Raised Shirley Temple: By Her Motherも参照。
  4. ^ "As long as our country has Shirley Temple, we will be all right"という一節はケネディ・センターのウェブサイト[10] ほか多くの著書や記事に引用された言葉。この事情に関してはシャーリーの自伝『シャーリー・テンプル』上巻[11]に詳しい。
  5. ^ Dubas (2006年) p.27およびWindeler (1978年) pp.7-28、自伝『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上巻pp.168-172を参照。[20][21][22]
  6. ^ モーアの本は元子役たちの生の声を収録した点で非常に貴重な資料と言えるが、裏付けを取らないまま活字にしているので誤りも多い。
  7. ^ スター子役の保護策をとらなかったMGMではたとえばジュディ・ガーランドミッキー・ルーニーエリザベス・テイラーが幼いうちにセックスと酒を覚えてしまい、成人後も精神的に不安定なまま結婚と離婚を何度となく繰り返した。これに照らせばフォックス社の処置は賢明だったと言え、たとえばやはり1930年代の少女スターの一人で憎まれ役を繰り返し演じたジェーン・ウィザースも精神的に安定した人生を送っている。
  8. ^ 1934年8位、1935年から1938年まで1位、1939年5位、1940年13位[28]
  9. ^ ミュージカル映画ベスト (en:AFI's Greatest Movie Musicals) はアメリカのミュージカル映画の一覧で、「AFIアメリカ映画100年シリーズ[30] の一環として2006年に選出。128位『テンプルの福の神』(20世紀フォックス、1936)、131位に『農園の寵児』(20世紀フォックス、1938)がそれぞれ入賞した[31]
  10. ^ 96位『コットン・クラブ』、98位『ミス・サイゴン』。「傑作ミュージカル100選」(2003) は授賞式の模様をまとめたテレビ映画でチャンネル4テレビ配給、進行役のデニス・ヴァン・オーテンはイギリス出身の歌手、役者、モデルである。舞台および映画で上演されたミュージカルベスト100の順位は一般視聴者の人気投票で決まり、チャンネル4のウェブサイトおよびメールニュースで票を受け付けた。候補作の一覧には作品の特徴を伝える短い動画が添えられ、関係者(俳優・監督・脚本家)あるいは作品を支持する有名人への取材の様子を収めたものも多い[32]
  11. ^ Windeler (1978)pp.110-205の各映画のクレジットの項を参照。[33]
  12. ^ 1937年に20世紀フォックスのシャーリー・テンプル一1人に対して、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーがクラーク・ゲーブルジーン・ハーロウの2人を交換する条件で一旦は貸し出しが決まったがハーロウが急死、代わりに出せる大スターがおらず話は流れてしまった[36]
  13. ^ この事情をジュディ・ガーランドの側から見た文章はデイヴィッド・シップマン著『ジュディ・ガーランド』pp.93-94を参照[37]
  14. ^ ルーズヴェルト大統領[38]、大統領夫人[39]、フーバー長官[40]それぞれの出典を参照。
  15. ^ ある雑誌記者がシャーリーの出ていない号があるかどうか、ひと月に発行された雑誌を調べている。山ほどの雑誌にシャーリーに触れなかったものはなかったという[41]
  16. ^ 20世紀フォックスから出ている日本版DVD『農園の寵児』のカバーに「映画『ザッツ・エンターテイメント』にも収録されたテンプルちゃんの見事な歌と踊り」と書いてあるが、これは完全な間違い。『ザッツ・エンターテイメント』シリーズの収録はMGMのミュージカルだけで20世紀フォックスの映画を含むことはない。かつ収録された作品は『農園の寵児』ではなく『テンプルの愛国者』が正しい。故に『テンプルの愛国者』DVDのカバーは「映画『ザッツ・ダンシング』にも収録されたテンプルちゃんの見事な歌と踊り」と書くのが正解である。
  17. ^ ブラック『シャーリー・テンプル』上p.118参照。この歌「こんぺい糖のお舟」は、現在に至るまで非常に愛されているだけでなく、さまざまなパロディの対象にもされている。
  18. ^ ブラック『シャーリー・テンプル』上p.214、p.251を参照。なお、ディズニーの劇中歌を集めた「シング・アロング」シリーズにはディズニー社の映画の曲以外の歌として唯一、"At the Codfish Ball"を収録。
  19. ^ [56]。ティーン・アイドルとして活躍した時期は第二次世界大戦と戦後の混乱期にあたり、日本で彼女の作品は公開時期を逸したり、かなり後になってから目立たない形で公開されたものが多い。
  20. ^ 幼い頃から演じた役回りは壊れそうな結婚や敗れかけた恋愛を修復するいわば天使、または悲惨な境遇に耐えるいたいけな孤児など[58]、さらに勧善懲悪のパターンに沿って強欲を戒め貧しい者を助ける、高度経済に対する大恐慌から人々を救い出す等おとぎばなしの妖精役[59]が多かった。この性格付けは10代に成長したシャーリーには無理があったことから、従来の「幼児らしい素直さ」を控えめにして、「自然で気取らない」「世間ずれしない純情な」「おちゃめでいたずらな」面を前に出していく[58]
  21. ^ シャーリーは西部劇『アパッチ砦』(ヘンリー・フォンダ監督・1948年)でジョン・ウェインと共演し、配役は夫ジョンの恋人。[62]
  22. ^ 英語:Charles Alden Blackを参照
  23. ^ [71]と英語:Charles Alden Blackを参照
  24. ^ シャーリーの自伝の日本語訳ではこの話の箇所で社交界(society)を「社会」と誤訳したため文章が意味不明になっている
  25. ^ アサートンの町は国内で最も富裕な地区の一つであり、現在はシリコン・ヴァレーのIT企業経営者の家が立ち並ぶ
  26. ^ 1989年にイギリスで出版された書籍Hollywood Lolitaを含む一部の情報源は、子供たちの芸能界入りにシャーリーが猛反対したとしているが事実ではない。一時期、子供3人がテレビ出演に興味を示すと『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』のエピソード「マザーグース」に一緒に出ているし、また『シャーリー・テンプル・シアター』は「ベイブス・イン・トイランド」の回で一緒に司会を務めている。ただし、3人ともそれで満足して関心を示さなくなり、二度と芸能界の仕事に携わることはなかった。
  27. ^ The Red Skelton Show (英語) は日本でもテレビ朝日金曜7時30分枠の連続ドラマの『スケルトン大笑劇場』シリーズとして放送 (1961-1962年)。
  28. ^ たとえばスタジオ・クラシック・シリーズの『テンプルのえくぼ』[86]、『小連隊長』、『テンプルの愛国者』など。
  29. ^ 額面を30ないし50倍すると現在の貨幣価値に相当する。
  30. ^ 『オズの魔法使』で脚光を浴びたジュディ・ガーランドはすでに重度の覚醒剤依存に陥り、映画の撮影所よりも多くの時間を精神科の病室で過ごした。
  31. ^ 1988年にラリー・キングのインタビュー番組で答えたところでは、20世紀フォックスの出演契約料だけでも当時の金額で300万ドル超、加えて契約終了後に信託口座へ積み立て金が入ったという。ところが父がその信託金の名義を変えて取り崩し、さらに残高から税金を差し引かれ、残った信託金はおよそ4万5ドルだったとシャーリー自身が明かした。
  32. ^ 自伝を参照[89]
  33. ^ マクロスキー候補は後に大統領選に出馬したり共和党から民主党に鞍替えしたりした
  34. ^ 英語版のウィキペディアには、ベトナム戦争には賛成したと書いてあるが異論のあるところであろう[90]。マクロスキーのネガティブ・キャンペーンがまだ大きく響いたことは想像にかたくない。シャーリーが裕福なことから、当時流行のミニ・スカートをはかなかったことまで、ことごとく攻撃の材料にされた
  35. ^ シャーリーの自伝(上巻)400ページを参照。シュルツ国務長官が彼女の自伝の後書きを書いたときシャーリーはまだ外交官としての道半ばだった[91]
  36. ^ 日本の一部の情報源には彼女が右翼運動に関係したとあるが、これは自伝の中の「ミニットマン(Minutemen)」という語の誤訳による。1950年代初頭の出来事についてシャーリーは自伝の原書で「私は独立戦争の時代の(英雄的な)民兵たちにならった」と書いており、訳書には「ミニットマン(反共秘密ゲリラ組織)にならった」としている(ミニットマンについてはミニットマン#極右団体を参照)。アメリカ独立戦争の民兵「ミニットマン」と同名を名乗る右翼団体は確かにアメリカに存在するが、創立は1960年代になってからであり彼女の著述とは文脈がつながらない。
  37. ^ 1969年の第24回国際連合年次総会 (1969年9月16日-同12月17日) で決議案について補佐[92]。また同総会の分科会「世界難民問題会議」 (1969年11月19日) にて所見を述べる[93]。アフリカ大陸で増加の一途をたどる難民問題についてアメリカ代表の声明の原稿をしたためると[94]、国際連合難民高等弁務官に迅速な対応を求める決議に影響を与えた[95]
  38. ^ 一部の情報源では「ガーナの親善大使」と述べてあるがこれは全くの誤り。「親善大使」という職名はアメリカ国務省には存在しない[100]
  39. ^ ガーナ大使としてフォード大統領と面談する映像がShirley Temple Black - Meeting With President Gerald R Fordという題名でYouTubeにある[102]
  40. ^ 儀典長就任式当日に大統領ほか閣僚と歓談する映像がShirley Temple Black's Inaugurationという題名でYouTubeに掲載。
  41. ^ [105]
  42. ^ 製作は複数の会社が参加。ディズニーの他 Hartbreak Films、Radio Pictures、Village Roadshow Pictures である。テレビ版は Walt Disney Television (アメリカ)。配給もやはり数社が関わり、最初のテレビ放送権(アメリカ・2001年)に続き、ブエナビスタテレビはテレビ他すべての媒体の使用権。日本の場合はテレビ放送権は WOWOW (『シャーリー・テンプル物語』吹替・2002年) が扱い、その他の媒体は Walt Disney Company が担当。DVD版(2001年アメリカ)はにWalt Disney Home Video、VHS ビデオの権利は Walt Disney Home Video (2001年) である[113]
  43. ^ 1冊目の出版後のインタビューより。[114]
  44. ^ ABCの情報バラエティ番組グッド・モーニング・アメリカ」では特集コーナー「今日はシャーリー・テンプルの80歳のお誕生日」を設けた。少女のコーラス・グループから60代・70代の女性まで、80歳の誕生を祝う人々が全国でシャーリーのテーマソング「On the Good Ship Lollipop 」 (「こんぺい糖のお舟」の原曲) を歌う姿を撮影し、歌詞の節ごとに録画をつなぎ直すと一曲にまとめてある。
  45. ^ 家族は自然死と発表し、検視報告書(2014年3月3日発表)にある死因は喘息およびCOPD[119]。ファンにとって悪い見本とならないよう終生、喫煙していたことを隠したという。
  46. ^ 「げんきなこどもはさむくない」他[133]
  47. ^ 童謡「テムプルチヤン」は歌・飯田ふさ江、武田雪夫作詞、上原進一作曲、奥山貞吉編曲。コロムビアレコード発売。
  48. ^ YouTubeでシャーリー・テンプルが歌う2曲を紹介している「夕焼け小焼け 靴が鳴る シェリー テンプル」”. ポリドールレコード 2409-A. 2015年7月1日閲覧。
  49. ^ ホームページ「まぼろし食料品店」第13回、「日本のお菓子に描かれたる外国の子どもたち」を参照串間努. “日本のお菓子に描かれたる外国の子どもたち”. ノスタルジー商店「まぼろし食料品店」. 2008年8月閲覧。
  50. ^ ローズ・パレードのグランド・マーシャルはGrand Marshal (英語) を参照。グランド・マーシャルの役割の定義は Marshal#Civilian (英語) にあるとおり、「催し物や舞踏会、晩餐会ほかで賓客の到着を公式に告げる役割」つまりパレードのリーダー役のこと。
  51. ^ 後に1980年代にイギリスの女性作家マリアン・シンクレアは著書 Hollywood Lolitas - the nymphet syndrome in the movies で弁護しつつ、男性の観客の深層心理に「アンビバレンツな感情があったのではないか」となかなかうがった見方をしている。ただし性革命の余波が残る約20年前に書かれたため、いささか内容が古いことは否定できない[151]

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  9. ^ 現在、一般的に用いられるシャーリーの出演作のタイトルのうち「テンプル」はもともと旧仮名遣いの「テムプル」と記し、『ハイジ』は『ハイデイ』だった。『テムプルちゃんのえくぼ』は『テンプルのえくぼ』と書き改められている。
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  150. ^ 富士川 2003, pp. 173–174.
  151. ^ Sinclair 1988.
  152. ^ シェリダン 1998a, pp. 348–349.






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