エクリプス (競走馬) エクリプス (競走馬)の概要

エクリプス (競走馬)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/20 14:00 UTC 版)

エクリプス
エクリプスの肖像、by George Stubbs
欧字表記 Eclipse
品種 サラブレッド[1]
性別
毛色 栃栗毛
生誕 1764年4月1日
死没 1789年2月26日
マースク
スピレッタ
生国 イギリス
生産者 カンバーランド公爵
馬主 ウィリアム・ワイルドマン
→デニス・オケリー
調教師 ジョン・オークリー[2]
競走成績
生涯成績 18戦18勝(諸説あり)
獲得賞金 2149ギニー
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  • 以下馬齢表記は現在の数え方に統一する[3]

概説

歴史的背景

エクリプスが生まれた18世紀中頃は、まだジョッキークラブも結成されておらず、ダービーステークス等今日知られている競走も行われておらず、王族などが開催する一部の競走を除けば、貴族や富豪が相互に賭け合い勝負をするという形で競馬が行われていた時代である。また競走形態も後世のものとは異なり、同じ馬で長距離レースを何度も戦って勝負を決するという形式のもの(ヒートレース)が盛んに行われた。この時代の競走馬といえば、主に東方(アラビア半島北アフリカ小アジアなど)から輸入あるいは略奪してきたアラブ種系の馬のことを指していた[4]。サラブレッドはまだ成立しておらず、競走馬といえば単にランニングホースと呼ばれていた。エクリプス自身も競走馬時代はサラブレッドと呼ばれたことはないはずである。この後エクリプスやヘロドマッチェムスナップなどが基礎となりサラブレッドという品種が徐々に成立していくこととなる。1791年ジェネラルスタッドブック序巻の発刊をもってサラブレッドの成立とすることが多い。

競走成績

このような時代に生まれたエクリプスは、極めて激しい気性を持ちながらも当時の競馬に適応した。18戦18勝(うちヒートレース7、マッチレース1、単走8)という成績を残し、かつ全ての競走が楽勝だった。エクリプスは18世紀の最強馬とされることが多い。少なくともこの時代最も重要な競走馬であり、かつ後世に最も知られているというのは確かである。

ただし当時既にドイツなどでも競馬が行われていたはずであり、そちらとの力関係は現在では知るすべはない。現在に繋がるイギリスの競馬はともかく、相次ぐ戦争などで衰退する大陸ヨーロッパの競馬は忘れられていった。イギリスにも同世代にゴールドファインダー(13戦不敗、エクリプスとは未対戦に終わる)という競走馬がいたが、こちらも現在では記録の彼方に追いやられている。また、エクリプス自身の記録についても不明瞭なものが多く、この18戦のほかにも記録に残っていないものがあるといわれている。残されている逸話も真偽不明なものが幾つかある。

種牡馬としての実績

エクリプスには種牡馬としての功績もある。ポテイトーズサージェントなどを輩出し、この時代としては非常に多い344頭の産駒が競馬で勝利した。ダービーステークスは1780年の創設で、既にエクリプスは晩年にさしかかっていたが、3頭の優勝馬を送り出した。父の父や母の父としても優秀で、サラブレッドの成立にも貢献した。今日のサラブレッドの父系(サイアーライン)を遡っていくとその98%までもがポテイトーズ、キングファーガスというエクリプスの2頭の産駒にたどり着くとされ、これらを総称してエクリプス系と呼ばれる。同時代を生きていたマッチェムの子孫(2%)や、ヘロドの子孫(ごく少数)に対して圧倒的優勢である。

生涯

誕生

エクリプスは1764年4月1日日食(金環食)[5]の日に生まれた。馬名はこの日食に由来し、ジェネラルスタッドブック第1巻には「全てのレースを侵蝕 (Eclipse) したからエクリプスと呼ばれたのではなく、日食の日に生まれたため日食を意味するEclipseと名付けられた」と注釈がある。生産者はヘロドも生産したイギリス王族の軍人カンバーランド公である。

一方この時代、まだ血統書や成績書などは整備されていなかったため[6]、分かっていないことも多い。生誕地はウィンザー御狩場牧場というのが有力ではあるが、他にもドーキングのミクルハムにある古木の側なども有名で、バークシャーダウンズ、アイル・オブ・ドッグズという説もある。

デビューまで

1歳になった1765年、カンバーランド公が死亡したためエクリプスを含め彼の所有馬は全てセリ市に出された。の売買商ウィリアム・ワイルドマンは、人づてにエクリプスの話を聞きぜひ手に入れたいと思っていたが、彼が到着したとき既にエクリプスは70ギニーで落札されてしまっていた。ワイルドマンは諦めずにセリが公示時刻よりも早く始まっていたことに抗議し、再度行われたセリにて75ギニーに競り上げエクリプスを手に入れる事に成功した[要出典]

ワイルドマンはこうしてエクリプスを手に入れたものの、非常に気性が荒く、事あるごとに暴れるエクリプスを持て余していた。一時は去勢することも考えたが[7]、知り合いのデニス・オケリーの勧めもあり結局辛抱強く馴致(じゅんち)を行った。名立ての荒馬乗りジョン・オークリーに乗り回される内に競馬に使えそうな見込みが立ち1769年にデビューした。当時はヒート競走(同じ馬が2回勝つまで競走を繰り返す)が主流だったこともあり5歳6歳になってからのデビューが普通で、エクリプスもこの時5歳になったばかりだった。

エクリプスをデビューさせるにあたりエプソムで試走させてみると、エクリプスは予想外の力を見せた。真偽のほどは定かではないが次のような話が伝わっており、キノコ狩りにやって来て偶然この試走を目撃した近所の老婆が「あれが本当の競馬であったかどうかよくわからないが、右後脚一白の栗毛馬がもの凄い形相をして疾走し、たちまち相手馬との差をどんどん広げていくのを見たのはたしかです。あの馬に追いつくには地の果てまで走り続けても……」参考文献2,3より引用)と答えたという[8]。デビュー戦の掛け率(オッズ)はこの試走により一挙に1対4にまで跳ね上がった。

競走馬時代

競走成績は公式には18戦18勝とされた。7回から8回のヒートレースに出走したが、各ヒートでも1度も負けず、全て2戦で決着を付けている。走行フォームは頭を地面すれすれに下げて走る独特なものだったと伝えられている。

エクリプスは1769年5月3日にエプソムで行われたノーブルメン&ジャントルメンズプレート(貴族と紳士のプレート、4マイルヒート)でデビューした。既に他馬を凌駕する力を持っており、この競走で「Eclipse first, the rest nowhere.」という言葉が生まれた。

2戦目はアスコット競馬場でのノーブルメン&ジャントルメンズプレートで、ここも圧勝。さらに次走、6月13日にウインチェスター競馬場で行われたキングズ100ギニープレートは、7歳馬を相手に大差で圧勝した。オケリーは初戦で儲けた資金650ギニーでエクリプスの権利の半分を買い取った。2日後の競走はエクリプスのあまりの強さを目の当たりにした馬主が皆回避したために単走になった。このシーズンは他に、ノーブルメン&ジャントルメンズプレート、シティプレート、シティフリープレート、キングズ100ギニープレート等記録に残っている競走だけで9戦を消化し全て圧勝で終えた。

エクリプスの強さが明らかになるにつれ賭けレースを挑もうという人は少なくなり、馬主が貴族でもジョッキークラブに所属しているわけでもないエクリプスにとって出走する競走がないという問題が出てきた。この後も出走可能な貴族と紳士のプレートのような競走に出走し続けるが、登録する端から皆が回避してしまうために、生涯で少なくとも8度の単走を記録した。


競走成績

出走日 競馬場 競走名 着順 騎手 距離 (主な対戦相手)
1769年5月3日 エプソム ノーブルメン&ジェントルメンズプレート 優勝 J.オークリー 4マイルヒート (ガウアー、ケード、トライアル、プルーム)
5月29日 アスコット ノーブルメン&ジェントルメンズプレート 優勝 J.オークリー 芝2マイル・ヒート (クリームデバルバド)
6月13日 ウインチェスター キングズ100ギニープレート 優勝 J.オークリー 芝4マイル・ヒート (スラウチ、チガー、ジューバ、カリバン、クランヴィル)
6月15日 ウインチェスター シティ50ギニーズプレート 1着 J.オークリー 芝4マイル 単走
6月28日 ソールズベリー キングズ100ギニープレート 1着 J.オークリー 芝4マイル 単走
6月29日 ソールズベリー シティフリープレート 優勝 J.オークリー 芝4マイル・ヒート (サルファー)
7月25日 カンタベリー キングズ100ギニープレート 1着 J.オークリー 芝4マイル 単走
7月27日 ルイス キングズ100ギニープレート 優勝 J.オークリー 芝4マイル・ヒート (キングストン)
9月19日 リッチフィールド キングズ100ギニープレート 優勝 J.オークリー 芝3マイル・ヒート (タルディ)
1770年4月17日 ニューマーケット マッチレース 1着 J.オークリー 芝4マイル (ブケファロス)
4月19日 ニューマーケット キングズ100ギニープレート 優勝 J.オークリー 芝4マイル・ヒート (ペンショナー、ダイアナ、チガークロー)
6月5日 ギルドフォード ヒズマジェスティーズ100ギニープレート 1着 J.オークリー 芝4マイル 単走
7月3日 ノッティンガム ヒズマジェスティーズ100ギニープレート 1着 J.オークリー 芝4マイル 単走
8月20日 ヨーク ヒズマジェスティーズ100ギニープレート 1着 J.オークリー 芝4マイル 単走
8月23日 ヨーク グレートサブスクリプションプレート 1着 J.オークリー 芝4マイル (トルトワーズ、ベラリオ)
9月3日 リンカーン ヒズマジェスティーズ100ギニープレート 1着 J.オークリー 芝4マイル 単走
10月3日 ニューマーケット 150ギニーズプレート 1着 J.オークリー 芝4マイル (コルシカン)
10月4日 ニューマーケット キングズ100ギニープレート 1着 J.オークリー 芝4マイル 単走

前述の通り、エクリプスにマッチレースを挑もうという馬はほとんどいなかったが、1770年の初め1回のマッチレースが組まれた。相手は当時北部を中心になかなかの実績を上げていたブケファロスという馬で、馬主ペレグリン・ウエントワースは6対4という強気な掛け率で挑んできていた。このマッチレースでもエクリプスは楽勝した。ウエントワースは愛馬が惨敗したことにショックを受け半年間自宅に引きこもってしまったという[9]。さらに次の競走では第2ヒートで再び対戦相手を「見えなくなるほど(out of sight)」突き放して圧勝した。

4月の終わりにはオケリーが1100ギニーでエクリプスの権利を全て買い取った。その後ヒズマジェスティーズ100ギニー、キングス100ギニー等に勝った。10月にはこの時代を代表するもう一頭の強豪、ゴールドファインダー(13戦不敗)とのマッチレースが行われる予定であったが、ゴールドファインダーが故障、そのまま引退したため実現せず、最後は挑んでくる者もいなくなったためこのシーズンを最後に引退することとなった。生涯成績は18戦とも20戦とも26戦とも言われているが全勝だったことは確かである[10]

引退後

引退後はオケリーのもとで種牡馬として供用された。オケリーはエクリプスを利用して馬産家として成功した。なお、最初はクレイヒルで供用されていたが、24歳の時に2頭立ての幌付き馬車でミドルセックスのカノンズに移された。これ以前に競走馬が車で移動した例は無く、馬運車に初めて乗った馬ではないかとも言われている[11]

1789年2月26日夜7時、疝痛(せんつう)により死亡、25歳であった[12]。カノンズで行われた葬儀には多くの人が集まり弔いのためにビール菓子が供された。

種牡馬成績

種付料は初年度が50ギニー、それ以降は20から30ギニーの間で推移した[13]。種牡馬成績はダービーステークス優勝馬3頭やポテイトーズ等344頭の勝ち馬(競走で1勝以上を挙げた馬。勝利産駒とも)を輩出し競走馬時代に勝るとも劣らない活躍をしたが、結果的に一度も首位種牡馬(リーディングサイアー)になることはなかった。これはヘロド(Herod、首位種牡馬8回、勝ち馬497頭)とその息子ハイフライヤー(Highflyer、首位種牡馬13回、勝ち馬469頭)と種牡馬としての活躍時期が競合していたためである。そのため、1778年から1788年の間歴代最多となる11年連続種牡馬ランキング2位という記録を作っている[14]。しかし母の父としては、ヘロド〜ハイフライヤー系の父との間に多くの名馬が出た。アーチデューク (Archduke) 、ジョンブル (John Bull) といったエプソムダービー優勝馬もいる。

  • 勝利産駒 344頭(文献により325 - 400の幅あり)
  • 総獲得賞金 158,047ポンド

なお、エクリプス(とハイフライヤー)は産駒があまりに活躍するために競走では特別な負担を課せられることもあった。例えば第1回ジュライステークスの施行条件にはエクリプスとハイフライヤー産駒は負担重量を余計に3ポンド背負わなければならないといった条件が含まれていた[15]


  1. ^ 当時はイングランドのランニングホース等と呼ばれていた
  2. ^ 当時は騎手調教師厩務員の区別は明瞭ではなく、騎手ジョン・オークリー、馬主ウィリアム・ワイルドマンらが調教を付けていた。『新・世界の名馬』はサリヴァンとしている
  3. ^ 当時のイギリスでは5月1日に一律年をとる
  4. ^ 本村凌二『競馬の世界史』中公新書、2016年、pp18-46,ISBN978-4-12-102391-9
  5. ^ この時の日食は金環食である。皆既日食が起こったというのは正確ではない。他にこの年イギリスで日食は起こっていないとする説もあるが、こちらは完全に誤りである
  6. ^ ジェネラルスタッドブック(血統書)創刊が1791年レーシングカレンダー(成績書)が1773年
  7. ^ 『優駿』2011年6月号、84頁。 
  8. ^ オケリーが賭け相手を集めるため意図的に流したとの説もある。「揺籃期のイギリス競馬」「新・世界の名馬」等による
  9. ^ 「新・世界の名馬」p.19による
  10. ^ ヒートを1つの競走と見るか、複数の競走と見るか。レーシングカレンダーに載っていない競走を含めるかどうかによって変わってくる。ここではイギリスの公式の競馬成績書に基づいて18戦としたが、bloodlinesは20戦とし最後の競走もNottinghamのキングズプレートとしている。また、「伝説の名馬 I」も別の組み合わせで20戦20勝としている
  11. ^ 「新・世界の名馬」による
  12. ^ 死亡日については27,28日と記述する資料もある。ここではThoroughbred Heritage、英語版Wikipediaを参考に26日としたが、「新・世界の名馬」「サラブレッド世界百名馬」「世界名馬ファイル」は27日、「伝説の名馬 I」及びThe book of Daysは28日としている
  13. ^ [1]、「新・世界の名馬」等による。「サラブレッドの生産及び英国競馬小史」等は逆に初年度が25ギニー、後50ギニーとしている
  14. ^ [2]による
  15. ^ 世界名馬ファイル p.17
  16. ^ 種付け料が3ギニーから100ギニーにまで上昇した
  17. ^ 「揺籃期のイギリス競馬」による
  18. ^ 「揺籃期のイギリス競馬」等による
  19. ^ BBC - DNA study of 'greatest racehorse'
  20. ^ BBC - 'Averageness' key to great racehorses
  21. ^ [3], [4]等による。他に80%や90%とする説もある
  22. ^ セントサイモンにおけるEclipse血量は約14%、Herodは19%強
  23. ^ 三大始祖が成立したのはエクリプスやハイフライヤーの産駒が走っていた時代であり、1785年にダービーを制したエイムウェルオルコックアラビアン系)にしても母の父にヘロドを持っていた
  24. ^ 「揺籃期のイギリス競馬」、Thoroughbred Heritage - Highflyer等による
  25. ^ a b c Todd ET, Ho SYW, Thomson PC, Ang RA, Velie BD, Hamilton N2. (2018). “Founder-specific inbreeding depression affects racing performance in Thoroughbred horses.”. Scientific Reports 8 (1): 6167. 
  26. ^ a b 『新・世界の名馬』原田俊治・著、サラブレッド血統センター・刊、1993,p13-27,エクリプス
  27. ^ a b 『英国競馬事典』p105-106「距離」
  28. ^ 『競馬百科』日本中央競馬会・編、みんと・刊、1976,p184
  29. ^ 『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』デニス・クレイグ著、マイルズ・ネーピア改訂、佐藤正人訳、中央競馬ピーアールセンター刊、1986,p70
  30. ^ 『アーバンダート百科』山野浩一・著,国書刊行会・刊,2003,p97





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