鉱山町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 08:25 UTC 版)
標高900メートル前後の無人の山間に開かれた大鉱山は、必然的に鉱山町の形成を伴った。鉱山地域の人口は1920年(大正9年)に1132人、1935年(昭和10年)に4145人、1940年(昭和15年)に8152人、最盛期の1960年(昭和35年)には1万3594人に達した。太平洋戦争中には1940年から朝鮮人労働者が投入された。 戦後は労働者の確保を図るために家族も含めた福利厚生施設の充実は急務とされた。このため公団住宅が一般化する前から、水洗トイレ・セントラルヒーティング完備の鉄筋コンクリートによる集合住宅や小・中学校、病院、映画館、活躍している芸能人を招いて公演を催す会館など、山奥にもかかわらず当時の日本における最先端の施設を備えた近代的な都市が形成されたため、「雲上の楽園」と呼ばれた。閉山後に木造の建物は延焼実験目的で焼却され、鉄筋コンクリートの建物だけが残された。 現在はそれらの建物が山中に廃墟として残っている。1990年(平成2年)に写真家の丸田祥三が廃墟化した松尾鉱山を写真集に収め、ニュース番組のイメージショットにも使われた。
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