農民反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:22 UTC 版)
1919年、ヴォルガ川流域で大きな反乱が起き、1919年5月にはウクライナでG.グリゴーリエフの反乱に2万人が参加した。同年夏にはウズベキスタンのフェルガナで農民がイスラムと手を組み赤軍と戦った。 1920年には凶作となり、国の指定する面積への穀物の種付けが農民に強制された。重い負担に不満をもった農民は1920年、ロシアのタンボフ県や西シベリアで反乱を起こした。タムボフ県では凶作と過酷な穀物徴発で飢饉が発生し、8月19日に徴発に反対する社会革命党のアレクサンドル・アントーノフが反乱を起こし、1921年初頭には5万人以上の農民が参加、1000人以上の党員が殺害され、60か所の国営農場が破壊された。農民軍に参加した25-80%は、貧農と中農で、労働者と平等の投票権と農業用の土地所有を求めた。1921年5月にトゥハチェフスキーが指導する赤軍が鎮圧した。 1920年には南ウクライナでもネストル・マフノが反ソビエト農民運動を組織して蜂起、農民4万人が参加した。反ソビエトゲリラは1921年末まで続き、1921年には赤軍正規軍が投入され、毒ガス弾も使用した熾烈なゲリラ掃討戦が実行された。ソビエトは、ウクライナの民族感情の強さを踏まえ、ウクライナの「独立」を認める形で支配することとなった。 1921年1月には、西シベリアで5万5000-6万の農民が反乱し、2月13日にはアルメニア人が蜂起し、首都エレヴァンを占拠した。
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