ウィリアム・ドナルド・ハミルトンとは? わかりやすく解説

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ウィリアム・ドナルド・ハミルトン

(W・D・ハミルトン から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/21 14:08 UTC 版)

William Donald Hamilton
ウィリアム・ドナルド・ハミルトン
生誕 1936年8月1日
 エジプト カイロ
死没 2000年3月7日(2000-03-07)(63歳没)
イギリス ロンドン
国籍 イギリス
研究分野 進化生物学,生態学
研究機関 ミシガン大学オックスフォード大学
出身校 ケンブリッジ大学
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス
ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン
主な業績 血縁選択説
包括適応度
局所的配偶競争
赤の女王仮説
老化の進化
主な受賞歴 ダーウィン・メダル(1988)
クラフォード賞(1993)
京都賞基礎科学部門(1993)
プロジェクト:人物伝
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ウィリアム・ドナルド・“ビル”・ハミルトンWilliam Donald "Bill" Hamilton, 1936年8月1日 - 2000年3月7日)は、イギリス進化生物学者理論生物学者

血縁選択説包括適応度を提唱し、ダーウィン以来の難問であった生物の利他的行動進化の観点から理解する道を拓いた。近親交配性の狩りバチなどに見られる異常な性比を説明する局所的配偶競争や、進化ゲーム理論のさきがけとなる「打ち負かされない戦略」を提唱した。有性生殖の進化的意義の研究では、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』にちなんだ赤の女王仮説への支持と論理の拡張を行った。性選択において、オスの美しさは寄生虫耐性を示すというパラサイト説を唱えた。また老化の進化的意義の研究や、群れは捕食圧によっても形成されるという「利己的な群れ説」を提唱した。晩年には紅葉の進化のハンディキャップ説、微生物による雲の生成説などを提唱した。進化生物学だけでなく生物学分野全般に大きな影響を与え、現代のダーウィンと呼ばれた。

生涯

エジプトカイロで生まれる。父アーチボルド・ハミルトンはニュージーランド出身の工学者。母は医者。彼らの家族はイギリスのケント州に移住し、第二次世界大戦が激しくなるとエディンバラに疎開した。ケントでの住処はダーウィンが後半生を送ったダウンの村に近く、幼い頃に家族で訪れている。大叔母から昆虫の標本とアンリ・ファーブルの著書の翻訳版を貰ったことで昆虫採集に魅了された。9歳の誕生日に両親から送られた進化生態学者E.B.フォードの著書『蝶(Butterflies)』は、幼いハミルトンを自然選択遺伝学集団遺伝学の世界へ導き、昆虫採集を「単なるコレクション」と考えるようになった。12歳のときに、父親が第二次大戦中に作った手製の手榴弾で遊んでいて大けがを負い、一命は取り留めたものの右手の指を失った。14歳になるとダーウィンの『種の起源』を読み、ハチやアリなど社会性昆虫の生態が進化学の難問であることを知った。

トンブリッジ校を卒業した後、1957年ケンブリッジ大学に合格するが、同年から1959年まで兵役に就く。右手の障害のため海外に派兵されることはなく、工兵連隊の募兵担当官となった。この間に、無断で離隊し連れ戻されるという事件を起こしている[1]。ケンブリッジ大学ではセント・ジョンズ・カレッジに在籍した。ハミルトンは大学の図書館でロナルド・フィッシャーの『自然選択の遺伝的理論』を読み、集団遺伝学に魅了された。しかし当時フィッシャーは統計学者であり生物学的な視点に欠けると見なされ、彼の著作も現在ほどの影響力を持っていなかった。正規の授業はハミルトンを満足させることはなく、そのためハミルトンは遺伝学教室で過ごす時間が増えていった。「利他的行動は個体にとっては不利だが種の利益になるから進化する」との説明に何の疑いももたれていなかったことに触れ、「みんなが群淘汰を信じ偽善に陥っている」と言ったと伝えられる[2]J・B・S・ホールデンやフィッシャーらもこの利他性の問題にわずかに取り組んでいたが、ハミルトンの助けにはならなかった。この頃妹のマリーに宛てて送った手紙で、「貧弱な数学の才能しかありませんが、理論生物学でやっていこうと考え始めました」と明かしている[1]。卒業試験の直前には、フィッシャーの晩年の学生で後継者の一人であるA.W.F.エドワーズの元でフィッシャーの性比の理論を研究した。

1960年にケンブリッジを出た後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) の社会学人口統計学教室に在籍したが、遺伝学全体に疑惑の目が向けられていた時代にそこは彼の研究にふさわしい場所ではなかった。さらにユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン (UCL) のゴルトン遺伝学教室に在籍したが、そこでも行動の遺伝に関するハミルトンの研究は歓迎されなかった。「遺伝子」と「行動」を同じ文脈の中で使えば、ファシストと見なされる風潮があった。結局、LSEのノーマン・キャリアとジョン・ハイナルが彼のために奨学金を手配し、UCLでは遺伝学者セドリック・スミスの指導を受けたが、多くの時間を図書館と大学外で過ごした。

ハミルトンが1962年に書いた論文はJournal of Theoretical Biology (JTB) に投稿され、その後に要約がネイチャーに却下されたためアメリカン・ナチュラリスト誌に送られた。アメリカン・ナチュラリスト誌の要約は先に1963年に掲載されたが、JTB誌の全文は遅れ1964年になってから二分割で掲載された。これが血縁選択説と包括適応度を説明した二編の論文『社会行動の遺伝的進化 I・II』である。論文の査読者であったジョン・メイナード=スミスが、これより先にネイチャーへの投稿でハミルトンの理論を血縁選択と名付けていた。

ハミルトンは理論がなかなか受け入れられなかったことで偏見が存在すると感じ、自信を失った。1964年からインペリアル・カレッジに講師として職を持ってはいたが、ブラジルをフィールドワークのためにたびたび訪れた。そこでポルトガル語を学び、サンパウロ大学の客員教授としてポルトガル語で講義を持つこともあった。その間の1969年にメイナード=スミスを学外審査員として博士号を取得している。その後、1977年から1984年までアメリカのハーバード大学ミシガン大学に進化生物学教授として在籍した。アメリカではイギリスよりも早くR.トリヴァースやR.アリグザンダー、E.O.ウィルソンらの働きによって血縁選択説の受容が始まっていた(と同時に、ハミルトンの着任に反対する座り込み運動にも出会った)。

ミシガン大学ではリチャード・アリグザンダーの元で研究を行った。またロバート・アクセルロッドと共同で進化ゲーム理論と利他行動の進化を研究を行った。1984年オックスフォード大学の動物学の王立協会研究教授として、イギリスに帰国した。1988年に、ミシガン大学を拠点に進化心理学の中心的な学会となる「人間行動と進化学会」が発足すると初代会長に就任した。彼は当初この学会には批判的であったが、ランドルフ・ネシーらの説得で引き受けた[3]

HIVのポリオワクチン起源説を確かめるためにコンゴで実地調査を行っていた2000年2月にマラリアに罹り、6週間の治療のあと死去した。7月1日にオックスフォード近くのワイタムの森に埋葬され、ニュー・カレッジのチャペルでリチャード・ドーキンスにより(ハミルトンも無神論だったので)世俗式の追悼式が行われた[4]

ハミルトンは自身の埋葬について次のように述べていた。

遺体はブラジルへ、この森へ運ぶように遺言を書き残す...この偉大なダイコクコガネが私を埋葬してくれるはずだ。彼らは私の中に入り込み、私の体を土に埋め、私の肉を食べて生きるだろう。私は彼らの子孫と私の子孫に姿を変えて生き残っていく。...体は次々と空に舞い上がり、星々の下に広がるブラジルの大原野へ飛んでいく。その背には皆、美しい翅鞘をそなえ、それを広げて空高く飛翔する。そしてついに私は、石の下で見たあのオサムシのように、紫色に輝くのだ。[5]

1966年にクリスティーナ・フリースと結婚し、三人の娘ヘレン、ラス、ロィーナをもうけた。夫人とは1992年に別居した。1994年頃からイタリア人ジャーナリスト、マリア・ルイーザ・ボッツィと同居生活を送っていた。マリア・ルイーザはハミルトンの死後イタリアに戻り、2004年に死去した。

業績

ハミルトンの法則

ハチやアリなど社会性昆虫の行動は、ダーウィンが、生き延びる女王を通して進化するのだろうと予測していた。しかし子を残さずに形質が子孫に受け継がれると説明するのは自然選択に明確に反すると考えられ、場当たり的な説明だと批判されていた。ホールデンやフィッシャーはこれの定式化に取り組んだが成功しなかった。ハミルトンはシューワル・ライトの血縁係数を用いることでこの問題を解決した。

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