T97とフォルクスワーゲン
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「タトラ (自動車)」の記事における「T97とフォルクスワーゲン」の解説
一方、T97はわずか508台が製造されたところで、1939年に製造中止措置を受けた。ヒトラーの命令でフェルディナント・ポルシェが開発したKdf(のちのフォルクスワーゲン・タイプI いわゆる「ビートル」)と近似したクラスの乗用車であり、バックボーンフレームとスイングアクスルサスペンション、空冷水平対向エンジンというスペックも酷似していたことが原因とされる。 T97とフォルクスワーゲンの近似性、T97がドイツに製造中止させられたという事情から、ポルシェがレドヴィンカの着想を剽窃したという説が、しばしば語られている。1934年のT77、1936年のT87のレイアウト・メカニズムの多くが、1938年完成のフォルクスワーゲンと類似しているという理由によるものである。そもそもレドヴィンカとポルシェは共に同年輩のオーストリア人であり、1920年代から面識もあって、逢えば互いに技術の交換を行っていた。 しかし、ポルシェは1920年代からリアエンジン車に関心を持ち、1932年にはNSUとの協力によってヤーライ型ボディを持つ流線型リアエンジン小型車を試作している。これはのちのフォルクスワーゲンと酷似している。タトラにおけるリアエンジン車試作と同時期のことである。 これに鑑みるに、「ポルシェがレドヴィンカの着想を全面的に剽窃した」とまでは言い切れない面もあり、性急な判断は難しい。ともかくも「ポルシェがレドヴィンカから剽窃を行った」という疑惑は、21世紀初頭現在でも肯定説・否定説が錯綜している。 T97の製造中止措置については、第二次世界大戦後、チェコスロバキア側から訴訟が起こされ、最終的にはフォルクスワーゲン社から300万マルクの代償が支払われた。
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