Sagara Haruhiroとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > Sagara Haruhiroの意味・解説 

相良晴広

(Sagara Haruhiro から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/14 08:16 UTC 版)

相良 晴広(さがら はるひろ)は、肥後戦国大名相良氏の第17代当主。第16代当主相良義滋養嗣子で、実父は上村頼興[2]。初名は頼重(よりしげ)。何度かの改名を経て、晴広としたのは将軍・足利義晴からの偏諱による。


  1. ^ a b c 南藤蔓綿録』によると、12月2日の一字拝領の際には「義広」と称し、同月26日に「晴広」と改めてたとしている。
  2. ^ 上村氏の第13代当主。
  3. ^ 「長為」は養父・相良義滋の初名と同じ。
  4. ^ a b 政略結婚であるので個人的な夫婦間のいざこざが理由とは考え難く、名和武顕が阿蘇惟豊に接近したことと関係があると思われ、誓約で取り交わした人質を家に帰す意味があったものと推測される。
  5. ^ 義滋は、海外貿易と関連して、幕府の渡船奉行で日明貿易を独占する大内義隆と連携していた。また、義隆から義滋に対して、貿易船の警護を命じる書状が残っている。
  6. ^ 小久保嘉紀「将軍偏諱の授与とその認知―相良義陽の事例から―」『九州史学』173号、2016年。
  7. ^ 木下聡「相良晴広の右兵衛佐任官の背景」『戦国史研究』60号、2010年。
  8. ^ 島津氏が代々守護職を受領した薩摩・大隅・日向のこと。
  9. ^ 史料には島津家(伊作家)と争ったとする記述は認められず、むしろ義滋の代から交流があったとする記述は散見できる。
  10. ^ 『南藤蔓綿録』の「北島与兵衛」の項には、晴広の晩年に薩摩の兵、及び島津氏の兵が大畑へ侵入したとの記述もあるが、晴広の代に大畑と境を接しているのは菱刈氏及び日向国飯野の北原氏であり、また大畑で合戦があったとする記録は、『八代日記』などには義滋の頃の大岩瀬合戦と、義陽の頃の上村頼孝らの叛乱のときのみ(共に相手は北原氏)で、晴広が当主の頃には認められない。
  11. ^ 現在の宇城市松橋町松橋。大塚古墳のある場所。
  12. ^ 義滋の女婿で、晴広の義兄にあたる。
  13. ^ 天草市河浦町一町田。
  14. ^ この出来事は天文20年であるという異説もある。
  15. ^ 相良義滋の時代に整備されたこの頃の相良氏の主城。中世の古麓城に近い場所にあるが、それとは異なる戦国時代の城で、遺構のみ現存。鷹峯と書いた場合も「たかがみね」と読む。


「相良晴広」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

Sagara Haruhiroのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



Sagara Haruhiroのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの相良晴広 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS