O-Zone vs Haiducii
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 07:52 UTC 版)
「O-Zone」の記事における「O-Zone vs Haiducii」の解説
『Dragostea Din Tei』(以下DDT)がヨーロッパ中で大ヒットした裏には、ある女性歌手との壮絶なバトルがあった。 2003年秋、イタリアのダンスミュージック専門会社ウニヴェルソ・レーベルの社長はある日、移動中の車内でルーマニア出身の運転手がカセットに入れて車に乗せていたDDTを初めて聴き、この曲は大ヒットすると確信した。ウニヴェルソ・レーベルにはHaiduciiというルーマニア系の女性歌手が所属していた。彼女は元ミス・ブカレストでルーマニア語も片言ながら話せたために社長はDDTを彼女に歌わせることにした。HaiduciiのDDTは発売と同時にイタリアで大ヒットを記録したが、オリジナルを歌うO-Zoneはこれを訴える法的手段がなかった上ちょうど英語版DDT(MA-YA-HEE Songとは全くの別物)をひっさげてヨーロッパ進出をしようとしながら上手くいっていなかったこともあり当然不満をあらわにした。 ちょうどその頃、イタリアのタイムレコードがこのヒットにあやかって二匹目ドジョウを狙うべく、DDTを歌う歌手を捜していた。そんな中タイム社の社員がカンヌの音楽商談会『MIDEM』の展示場でルーマニアの同業者と出会い、Haiduciiのバージョンが悪質コピーだったことを知った。そして同時にオリジナルの方はどことも契約を結んでいないと知り、さっそくO-Zoneと契約、DDTをヨーロッパに売り出すキャンペーンを始めていたHaiduciiに原曲を持って真っ向から勝負を挑んだ。 イタリアでは時すでに遅しと言ったところで、O-ZoneはHaiduciiに勝てなかったが、隣のフランスでは壮絶なバトルを繰り広げた。インディーズ・レーベルのハリーミュージックが両方のバージョンを発売、社長のピエール・フォルガは「HaiduciiはイタリアでNo.1になりました。イタリア市場の動向は、フランスでのダンス系のヒットに影響を与えることがよくあります。しかしO-Zoneのあのキッチュなビデオ・クリップを見たとき、私はすぐさま夢中になってしまいました」と語った。そしてHaiducii、O-Zone間で抜きつ抜かれつの壮絶なバトルが展開された。ある放送局はO-Zone、別のある放送局はHaiduciiを流し続けた。しかしO-Zoneにはフランスの青少年に絶大な支持を受けて、流行の発信源となっているDJセバスティアン・コエが味方に付き、彼が毎朝ラジオでO-ZoneのDDTを流し続けたことが功を奏し、O-Zoneは見事No.1ヒットを獲得して勝利したのだ。フランスでNo.1ヒットを獲得したO-ZoneのDDTは勢いに乗ってヨーロッパ全土を席巻、ロシアでも大ヒット、日本でもその後ヒットしているのは周知の通りである。その後Danは「Haiduciiのコピーがなかったら、ヨーロッパで名を挙げることはたぶん、きっとできなかったと思う」と語っている。O-Zoneは英語のバージョン(先述の『MA-YA-HEE Song』とは全くの別物)を用意していて、ルーマニア語のオリジナルが外国語圏で売れるなど想像だにしていなかったのだ。
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