FCバルセロナ・オランダ代表
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「リヌス・ミケルス」の記事における「FCバルセロナ・オランダ代表」の解説
欧州制覇の肩書きを引っさげ、1971年にスペインの名門クラブ、FCバルセロナ監督に就任。ここでも独自の理論と強烈な存在感でチームを牽引。1973-74シーズンにはクラブを14シーズン振りの国内リーグ優勝に導いた。その直後、ミケルスはバルセロナ監督と兼任する形でオランダ代表チームの監督に就任。ワールドカップ西ドイツ大会開催直前での人事であったが、選抜されたメンバーはクライフやニースケンス等、ほとんどミケルスが直接指導した選手達で構成され、すでに完成されたチームとなっていた。目まぐるしいポジションチェンジと正確無比のパスワークで他を圧倒、準決勝まで14得点1失点(しかもオウンゴールによる失点)という完璧な内容で勝ち進んだ。しかし決勝戦・対西ドイツ戦では、チームの心臓であるクライフが西ドイツのDFベルティ・フォクツの執拗なマークに遭い、オランダのリズムが作れないまま最終スコア1-2で敗退した。結果は準優勝に終わったものの、この「オレンジ・マシーン」達のフットボールは既存の戦術と一線を画し、世界中のサッカーシーンにセンセーションを巻き起こした。 1988年には、欧州選手権にオランダ代表を率いて出場。マルコ・ファン・バステン、ルート・フリット、フランク・ライカールト、ロナルド・クーマンといった層々たるタレントに恵まれ、見事栄冠を勝ち取った。 1992年の欧州選手権でも再びオランダ代表を率いたが、準決勝でデンマークにPK戦で敗れベスト4に留まった。この敗戦を最後にミケルスは監督業から勇退。その後の1990年代はミケルスの愛弟子・クライフが監督としてヨーロッパのサッカー界を席捲することになる。
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