CB750Four
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:20 UTC 版)
吉村が初めてCB750Fourを見たのは、ホンダ和光工場に勤める太田耕治から、自身の所有する車両のカムシャフト製作を依頼された時であった。当時国内ではまだ正規の発売は開始されていなかったものの、本田社内のオートバイチームにはCB750Fourでレースに参加する者が少なくなく、なかでも朝霞研究所内の「ブルーヘルメット」に所属する隅谷守男と菱木哲哉は1969年の「鈴鹿10時間耐久レース」にCB750Fourでエントリーし、ワンツーを飾るなど、市販に先立って活躍していた。同様に太田もCB750Fourで出場するために福生時代から懇意にしていた吉村にチューニングを依頼したのだった。 ホンダは1970年のデイトナ200(英語版)にCB750Fourで参戦し、ディック・マン(英語版)のライディングで優勝を果たしていたが、翌年の参加は見合わせていた。そのような状況で、アメリカでの販売戦略としてレースでの実績を求めたロン・クラウスは、板付基地時代に吉村の世話になっていた米兵から吉村の話を聞き、独自に吉村のチューニングしたマシンでデイトナ200マイルに参加することを考え、吉村にマシンの製作を依頼した。当時JAFによる四輪レギュレーションがプライベーターにとって不利なものに変更されたため、四輪から二輪へ立ち戻ることを検討していた吉村はこの依頼を快諾し、東京へ移転する前に考えていたアメリカ進出を本格的に検討し始めた。 デイトナへ送り込まれたヨシムラのCB750Fourはノーマルの67psに対し97psを発揮し、ゲイリー・フィッシャーのライディングで10周にわたってマイク・ヘイルウッドやディック・マンを押しのけトップを快走した。しかし、途中でカムチェーンが破断したことによりリタイアを喫した。優勝はBSAへ移籍した前年度王者のディック・マンだった。優勝は逃したもののアメリカでの知名度を得ることには成功し、特にCB750Fourのカムシャフトやピストンの注文は生産が追いつかないほどに増加した。ロン・クラウスからの評価も上々で、ヨシムラ・チューンのCB750Fourはアメリカのレースに引き続き参戦することが決定し、整備士に吉村不二雄、ライダーに森脇護を送り込んだ。
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