A代表時代
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シドニー五輪後、同年10月に出場したアジアカップ・レバノン大会で優勝して本格的にA代表(日本代表)に定着した彼らは2001年に地元で開催されたコンフェデレーションズ杯で準優勝し、翌年に控えた地元開催のFIFAワールドカップ・日韓大会へ勢いづけた。 2002年6月、地元開催となったWC日韓大会ではベルギー(2-2)と引き分けるもロシア(1-0)とチュニジア(2-0)から勝利を収め、グループリーグ1位通過で決勝トーナメントに進出するが、トルコ(0-1)と対戦して敗れた(ベスト16)。日本サッカー協会は4年後にゴールデンエイジが年齢的に全盛期となることを見越し、その創造力を発揮させられると期待して新監督にジーコを招聘した。2004年に出場したアジアカップ・中国大会では、地元の中国人サポーターによる激しいブーイング行為の洗礼に見舞われるものの、前回大会に引き続いて優勝し同大会連覇を果たした。 ただ、2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会でのグループリーグ敗退を境に彼らの実力と人気は次第に下降し、2007年に出場したアジアカップ・タイ・マレーシア・ベトナム・インドネシア大会では準決勝で敗退して3連覇を逃した。この頃になると国内開催の国際親善試合であっても観客席がなかなか満員にならず、人気の面でも苦戦している。2010年のFIFAワールドカップ日本代表チームでは黄金世代と呼ばれた世代はまだまだ老け込む歳ではないにもかかわらず遠藤保仁、稲本潤一のみの出場にとどまった。
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