40周年目の事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:44 UTC 版)
「ブルーインパルス」の記事における「40周年目の事故」の解説
ブルーインパルスが40周年、第11飛行隊も5周年となる2000年(平成12年)は、岩国基地で行われたフレンドシップデーなどで、「2000」という文字を描くなど、ブルーインパルスが得意とする「描きもの」が展示飛行に採りいれられた。 ところが、同年7月4日、金華山沖での訓練を終えて帰投する途中、5番機と6番機が宮城県牡鹿郡牡鹿町(当時・2005年以降は石巻市)の光山山頂付近に墜落、3名が殉職するという事故が発生した。この事故直後からブルーインパルスは活動を停止、同年7月末に予定されていた松島基地航空祭も中止となった。 事故原因は海霧の中で高度を下げすぎたのが原因とされた。1991年(平成3年)の同じ7月4日にも墜落事故が発生しており、その日がどんな日であるかはブルーインパルスのメンバー全員が分かっていたにもかかわらず発生してしまった事故だった。しかも、この事故では墜落地点が女川原子力発電所に近い地域で、女川原子力発電所の半径3.6kmに設定されていた飛行禁止区域をかすめて飛んでいたことが問題視され、周辺自治体の一斉反発を招いてしまった。 このため、航空自衛隊では、訓練空域や松島基地への進入経路を一部見直した上で飛行最低高度を設定するなどの安全対策を実施し、自治体との話し合いを続けた結果、2001年(平成13年)2月9日から訓練飛行を再開した。単独機である5番機と6番機の要員を失ったブルーインパルスの建て直しのため、第11飛行隊発足当時のメンバーだったパイロットが一時的にブルーインパルスに教官として復帰し、パイロット育成を実施した。また、機体も2機が失われ、通常2機が川崎重工でIRAN(定期検査)に入っているため、6機での展示飛行は出来なくなった。 それでも、同年8月26日の松島基地航空祭から展示飛行が再開された。同年9月9日の三沢基地航空祭ではアクロバット飛行を含む展示飛行も行われた が、同年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の発生により、その後の展示飛行はすべて中止となった。 2002年(平成14年)4月5日に行われた防衛大学校入校式から活動を再開した。これがT-4ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行となった。また、6月4日に行なわれたFIFAワールドカップ会場の埼玉スタジアム2002上空でも航過飛行(フライバイ)を行なった。同年中には2001年度予算案で2機の調達が認められた ことから、9月までに2機のT-4が引き渡され、再び6機での展示飛行が可能となったのは同年12月1日の岐阜基地航空祭からである。 この期間はパイロットのローテーションが変則的となり、3年という本来の任期を越えて在籍したパイロットもいた が、2003年にはほぼ以前と同様の状態に戻すことができた。
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