3重臣の帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 05:41 UTC 版)
「亀田藩士秋田退散事件」の記事における「3重臣の帰国」の解説
秋田藩に残された3重臣は、仙台藩・秋田藩と相談して、3重臣から批判された者を含め、改めて吟味することにまとまりつつあったが、その間に亀田藩における脱藩者への処分があった。秋田藩は亀田藩の措置はとても承服できないが、関係者を全員吟味し、亀田・秋田・仙台藩の相談で処分を決めるなら、3家臣を帰国させ事態収拾の相談をしてよいとした。秋田藩では、3重臣が疑心を抱いている吟味役役人候補の4人を除いた別の役人が吟味役にあたることを亀田藩に約束させ、3重臣は1766年(明和3年)12月27日に亀田藩に帰国することになった。 1767年(明和4年)7月、やっと再審が開始された。しかし、吟味は帰参者に対してのみ行われ、反対派の一部家臣に謹慎が命じられただけであった。たまりかねた脱藩者は遂に切腹を覚悟し、それを秋田藩の役人に見届けて欲しいとまで願った。これに対し秋田藩は彼らに自重を求め、彼らに対する援助や協力には限界があることを明言した。 9月18日、亀田藩の家老が秋田藩に来て、用人が大坂に出張したことを知らせ、その了承を求めた。しかし、その用人は帰参者から姦邪の中心人物として名指しされ、亀田藩でも帰参者と並んで被告席につくことを約束していた人物であった。このため、秋田藩内では亀田藩との断交論が意識されるようになる。明和5年2月、秋田藩は亀田藩に今までのことを抗議をして、このためやっと再審査が軌道に乗り、11月には決裁・裁断の時期になった。決裁内容は脱藩者に厳しく、脱藩者から名指しで批判されている反対者の行為は問題が無いというものであった。3家臣はいずれも蟄居を命ぜられ、特に岩城八百之助と岩城帯刀は御一門格を剥奪され、藩主から賜った藩主の名を一字を使用することを禁止された。秋田藩は一方的に審議を進めたことを強く抗議したが、亀田藩は既に仙台藩との相談は済んでいるとして、秋田藩へ対応を迫った。
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