3年戦役とは? わかりやすく解説

3年戦役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 01:49 UTC 版)

ティムールの征服戦争」の記事における「3年戦役」の解説

1386年ペルシア東部制圧したティムール西部に軍を進めルリスターンルル人を下した次の標的アゼルバイジャンからイラク統治するモンゴル系ジャライル部ジャライル朝であったティムールコーカサスに軍を進めるが、ジャライル朝スルタン・アフマド戦わずして逃亡しタブリーズティムール下ったティムールは同都市学者芸術家職人サマルカンド送った。これは以後ティムール慣習となる。そのまま北上してキリスト教国のグルジア王国下し、そこで冬を過ごした。 翌1387年トクタミシュ侵入したとの報が届いたジョチ・ウルス掌握したトクタミシュママイ潰し、その勢いでモスクワ落としてルーシ諸国支配権確立したが、それに飽き足らずティムール反旗を翻したのであるティムールミーラーンシャー急遽派遣してキプチャク軍を追い払ったその後ティムールはトゥルクマン系の国家黒羊朝駆逐しつつ、アルメニア制圧したペルシア制圧総仕上げとしてティムール南西部ムザッファル朝攻めた当初平和裏解決しようムザッファル朝ザイヌル・アービディーンの許で使者派遣するものの、ザイヌル・アービディーンがこれを捕えて拘留する武力打開する手段出たティムール軍がイスファハンに迫ると同市は降伏申し入れたが、一部市民ティムール軍を襲い始めると、ティムール市民皆殺しにして首のピラミッド築いた。その数は7にも及んだと言うイスファハン落としたティムールシーラーズへと向かうが、ザイヌル・アービディンは逃亡して同市は戦わずして降伏した。他のムザッファル朝君主達も次々帰順しティムールペルシア征服完遂するかに見えた。 ところが、本国からの報告事態一変させるトクタミシュ軍隊本国マー・ワラー・アンナフル攻め寄せ更にはモグリスターンも呼応して攻めてきたのである迎え撃つ王子ウマル・シャイフは苦戦余儀なくされ、遂にブハラ包囲される至った。これを聞いたティムール1388年2月遠征切り上げ、「3年戦役」の成果水泡に帰したのである。なお、同年には傀儡ハーンであったソユルガトミシュ死去して息子スルタン・マフムード新たにハーン位就いた。彼は単なる傀儡ではなくティムール片腕として活躍することになる。

※この「3年戦役」の解説は、「ティムールの征服戦争」の解説の一部です。
「3年戦役」を含む「ティムールの征服戦争」の記事については、「ティムールの征服戦争」の概要を参照ください。

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