3年戦役
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「ティムールの征服戦争」の記事における「3年戦役」の解説
1386年にペルシア東部を制圧したティムールは西部に軍を進めルリスターンのルル人を下した。次の標的はアゼルバイジャンからイラクを統治するモンゴル系ジャライル部のジャライル朝であった。ティムールはコーカサスに軍を進めるが、ジャライル朝のスルタン・アフマドは戦わずして逃亡し、タブリーズはティムールに下った。ティムールは同都市の学者・芸術家・職人をサマルカンドに送った。これは以後のティムールの慣習となる。そのまま北上してキリスト教国のグルジア王国を下し、そこで冬を過ごした。 翌1387年にトクタミシュが侵入したとの報が届いた。ジョチ・ウルスを掌握したトクタミシュはママイを潰し、その勢いでモスクワも落としてルーシ諸国へ支配権を確立したが、それに飽き足らずティムールに反旗を翻したのである。ティムールはミーラーンシャーを急遽派遣してキプチャク軍を追い払った。その後、ティムールはトゥルクマン系の国家黒羊朝を駆逐しつつ、アルメニアを制圧した。 ペルシア制圧の総仕上げとしてティムールは南西部のムザッファル朝を攻めた。当初は平和裏に解決しようとムザッファル朝のザイヌル・アービディーンの許で使者を派遣するものの、ザイヌル・アービディーンがこれを捕えて拘留すると武力で打開する手段に出た。ティムール軍がイスファハンに迫ると同市は降伏を申し入れたが、一部の市民がティムール軍を襲い始めると、ティムールは市民を皆殺しにして首のピラミッドを築いた。その数は7万にも及んだと言う。イスファハンを落としたティムールはシーラーズへと向かうが、ザイヌル・アービディンは逃亡して同市は戦わずして降伏した。他のムザッファル朝の君主達も次々に帰順してティムールのペルシア征服は完遂するかに見えた。 ところが、本国からの報告が事態を一変させる。トクタミシュの軍隊は本国マー・ワラー・アンナフルに攻め寄せ、更にはモグリスターンも呼応して攻めてきたのである。迎え撃つ王子ウマル・シャイフは苦戦を余儀なくされ、遂にはブハラが包囲されるに至った。これを聞いたティムールは1388年2月に遠征を切り上げ、「3年戦役」の成果は水泡に帰したのである。なお、同年には傀儡のハーンであったソユルガトミシュが死去して、息子のスルタン・マフムードが新たにハーン位に就いた。彼は単なる傀儡ではなく、ティムールの片腕として活躍することになる。
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