2.江戸店(えどだな)「山城屋」と藤堂藩
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「浅田家文書」の記事における「2.江戸店(えどだな)「山城屋」と藤堂藩」の解説
浅田家の江戸店「山城屋」は承応元年(1652年)から元禄16年(1703年)までの51年間、同家の次男・平兵衛と四男・久太郎(二代平兵衛)の二人によって経営されてきた。初代・平兵衛は貞享2年(1685年)56歳のとき、家族を連れて国元の西法花野村へ隠居したが、「私江戸に罷在時分木薬並びに両替の商売仕候」と記しており、山城屋が 木薬商と両替商だったことが判る。木薬の一種である「地黄じおう」は山城国久世郡枇杷庄(現・京都府城陽市)産のものを仕入れて寛文・延宝ごろから正徳2年(1712年)までの約50年にわたって「御用地黄」として藤堂藩に納めていた。これらは江戸店にも送られ、藤堂藩以外にも、たとえば対馬府中藩主などへの売却の史料が残っている。その他「繰綿」なども扱っていたようであり「商人」としての性格を深め、それがまた富の蓄積の手段となっていったと思われる。初代は23歳のとき独身で江戸へ出たが、二代は兄より12年遅れて寛文3年(1663年)まだ久太郎と呼ばれていた15歳のときに江戸へ出た。初代が隠居して、久太郎はその養子として山城屋と「平兵衛」の名を継いだ。元禄16年3月9日、二代55歳の平兵衛は手代の岡半三郎に江戸店を預けて一旦西法花野村の長兄・金兵衛の元へ帰ったが、5月27日半三郎からの書状で、急ぎ江戸に戻った。その主な理由は、4月29日に藤堂藩主第3代・藤堂和泉守高久が江戸で没したために生ずる種々の用事が、平兵衛自身でなければ対応出来ないということだった。このことは浅田家と藤堂藩との関係の深さを物語る象徴的な出来事である。それを示す往復書状がある。その一方で、借銀の返済不履行など貸付金の焦げ付きや山城国地人を江戸に派遣しても大都会たる江戸の生活習慣などに合わず役に立たない人間が出たり、悪しき都市生活の悪癖に染まって遊興に走る使用人の逃走があるなど、江戸店経営の綻びも見えはじめる。そんな書簡が史料として残る。
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