2.江戸店「山城屋」と藤堂藩とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 2.江戸店「山城屋」と藤堂藩の意味・解説 

2.江戸店(えどだな)「山城屋」と藤堂藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 07:26 UTC 版)

浅田家文書」の記事における「2.江戸店えどだな)「山城屋」と藤堂藩」の解説

浅田家江戸店山城屋」は承応元年1652年)から元禄16年1703年)までの51年間、同家次男・平兵衛と四男・久太郎二代兵衛)の二人によって経営されてきた。初代・平兵衛貞享2年1685年56歳のとき、家族連れて国元の西法花野村隠居したが、「私江戸に罷在時分並びに両替商売仕候」と記しており、山城屋が 木商と両替商だったことが判る。木一種である「地黄じおう」は山城国久世郡枇杷庄(現・京都府城陽市)産のものを仕入れて寛文延宝ごろから正徳2年1712年)までの約50年わたって御用地黄」として藤堂藩納めていた。これらは江戸店にも送られ藤堂藩以外にも、たとえば対馬府中藩主などへの売却史料残っている。その他「繰綿」なども扱っていたようであり「商人としての性格深め、それがまた富の蓄積の手となっていったと思われる初代23歳のとき独身江戸へ出たが、二代は兄より12年遅れて寛文3年1663年)まだ久太郎呼ばれていた15歳のときに江戸へ出た初代隠居して久太郎はその養子として山城屋と「平兵衛」の名を継いだ元禄16年3月9日二代55歳の平兵衛手代の岡半三郎江戸店預けて旦西法花野村長兄金兵衛元へ帰ったが、5月27日三郎からの書状で、急ぎ江戸戻った。その主な理由は、4月29日藤堂藩第3代・藤堂和泉守高久江戸で没したために生ず種々の用事が、平兵衛自身なければ対応出来ないということだった。このことは浅田家藤堂藩との関係の深さ物語象徴的な出来事である。それを示す往復書状がある。その一方で借銀返済不履行など貸付金焦げ付き山城国地人江戸派遣して大都会たる江戸生活習慣などに合わず役に立たない人間出たり悪しき都市生活の悪癖染まって遊興に走る使用人逃走があるなど、江戸店経営綻び見えはじめる。そんな書簡史料として残る。

※この「2.江戸店(えどだな)「山城屋」と藤堂藩」の解説は、「浅田家文書」の解説の一部です。
「2.江戸店(えどだな)「山城屋」と藤堂藩」を含む「浅田家文書」の記事については、「浅田家文書」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「2.江戸店「山城屋」と藤堂藩」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

2.江戸店「山城屋」と藤堂藩のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



2.江戸店「山城屋」と藤堂藩のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの浅田家文書 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS