2つの王冠の継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 03:35 UTC 版)
「ジグムント3世 (ポーランド王)」の記事における「2つの王冠の継承」の解説
ジグムント3世は1587年、ポーランド王ステファン・バートリの崩御を受けて、シュラフタによる国王自由選挙でポーランド王に選ばれた。ヴァーサ家出身のジグムントがポーランド王に選ばれたのは、母親を通じてヤギェウォ朝の血を引いていたのと、リヴォニア戦争でスウェーデンと同盟を結んでいたからであった。両国が共闘してバルト地域を保有し、モスクワ大公国(ロシア・ツァーリ国)のバルト海進出を阻むための政略的な結果であった。 ジグムント3世は政治的思惑により幼くしてポーランド王国かつポーランド・リトアニア共和国の首都クラクフへ預けられ、カトリック改革の主導的存在であったイエズス会の手で教育を受け、本国スウェーデンおよびヴァーサ家がルター派プロテスタント国家であるにもかかわらず熱烈なカトリック教徒となった。このため、1592年、父ヨハン3世が崩御すると、ジグムント3世はポーランドを出国せずにスウェーデン王位を継承し、叔父カール(後のスウェーデン王カール9世)が摂政としてスウェーデンを治めた。 しかし、近世的な君主と国家との宗教的一致を損なうジグムント3世とスウェーデンとの関係は、次第に悪化していった。スウェーデンでは、1593年のウプサラ宗教会議でアウクスブルク信仰告白が決議され、スウェーデン国内のほとんどの教会は、ルター派の信条を受け入れた。ジグムント3世は1594年、ウプサラで正式にスウェーデン王シギスムンドとして戴冠するが、国王となるにはスウェーデンのプロテスタント信仰を容認せざるを得なかった。1590年代のスウェーデンの宗教改革は大詰めを迎えており、ジグムント3世は一旦はこれを認めたが、ジグムント3世がポーランドに帰国すると、1595年に共和国はプロテスタント信仰を禁じた。共和国と合同を組むスウェーデンでは、これはウプサラ宗教会議違反として捉えられた。その間、摂政カールが国王代理として勢力を強めて行き、スウェーデンをルター派国家に戻すべく改革を徹底した。こうした両国の不和のために、スウェーデンは1590年からのロシア・スウェーデン戦争に敗れ、1595年にリヴォニア戦争で得たフィンランド湾深奥部を失うこととなった(代わりにエストニア公国の領有が確定)。1590年代のスウェーデン国内の宗教内戦は、最終的にプロテスタントが勝利したが、1600年のジグムント3世派の粛清は、何十年にもわたる紛争と混乱の頂点を極め、国情は悲惨なものとなった。
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