1954年 幸運のチケット
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「ビル・ヘイリー」の記事における「1954年 幸運のチケット」の解説
May.15 [ (We're Gonna) Rock Around The Clock /Thirteen Women (And Only One Man In Town)](Decca 9-29124) July.10 [Shake, Rattle And Roll/A.B.C. Boogie] (Decca 9-29204 ) Oct..30 [Happy Baby / Dim, Dim The Lights (I Want Some Atmosphere)] (Decca 9-29317) 1954年4月1日デッカ・レコードと契約。その内容は年間4枚のシングルリリース、2,000のラジオ局DJへサンプル・レコードの配布、5%の印税、その5万ドルの先払い、ビルボードとキャッシュボックスへの全面広告掲載が保証された優れたものだった。5月「ロック・アラウンド・ザ・クロック」、7月「シェイク・ラトル・アンド・ロール」をリリース。後者は ビルボードのポップチャートで最高7位の大ヒットとなった。「シェイク~」録音の10日後6月17日にギタリストのダニー・セドロン(Danny Cedrone)が急死、フラニー・ビーチャー(Franny Beecher)が加入する。10月、初の出演映画となる「Roundup of Rhythm」公開、3曲を演奏する。 フラニー・ビーチャーはボブ・バーマンのインタビューで当時をこう語る。「最初のセッションの時の事、私はギターソロのパートでジャズのフィーリングでプレイしたところ、最初の4小節でバンド全体の演奏が止まりました。ビルが私に言いました。『それじゃレコードが売れないよ』。それからはメジャースケール(長音階)を強く意識して♭5度などのブルーノートは使用しませんでした。」175ドルでスタートした週給が300ドルまでハネ上がった(コメッツ・メンバーの給与形態は週給だった)。それはバンドの稼働いかんに関わらず支払われ、演奏旅行の費用、ユニフォーム、機材の購入、そしてセッション毎のギャランティーは別途支給された。「当時これだけ稼いでいたミュージシャンは他にいません。私は3台のリンカーン・コンチネンタルを所有していましたが、洗車をする必要がありませんでした。少しでもほこりが付けばその車を下取りに出し、新車を購入出来たのです。」
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