1947年テキサスシティ大災害
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「テキサスシティ」の記事における「1947年テキサスシティ大災害」の解説
詳細は「テキサスシティ大災害」を参照 戦後の繁栄は、1947年4月16日の朝、突然終わりを告げた。フランス船籍の貨物船グランドキャンプ号の船内で火災が発生し、積荷の硝酸アンモニウムに引火、爆発を起こした。テキサスシティ大災害ははアメリカ史上最悪の産業事故と捉えられている。硝酸アンモニウムはネブラスカ州とアイオワ州で製造され、テキサスシティのドックに貯蔵されたときにはすでにオーバーヒートしていた。爆発によってグランドキャンプ号のすぐ近くにあったモンサント社のプラントや事務所は破壊され、倉庫は吹き飛ばされ、船の破片があらゆる方向に飛び散った。そして隣に停泊していたハイ・フライヤー号も炎上、さらにハイ・フライヤー号の錨が外れたことにより、その隣のウィルソン・B・キーン号に衝突した。これらの船も硝酸アンモニウムを積んでおり、それぞれ炎上、爆発した。最終的に581人が死亡、5,000人以上が負傷する大惨事となった。爆発があまりに激しく強烈であったため、最初の爆発に巻き込まれた消防関係者の多くは消息が分かっていない。 鉄筋コンクリート製のカントリーエレベーターには破片によって小さなくぼみが生じ、さらにグランドキャンプ号のドライブシャフトが埋め込まれた。錨は数マイル先まで吹き飛び、パンアメリカン石油の製油所の敷地内に埋まっているのが発見された。煙を見に集まった学生や住民も多く亡くなり、港に近い地区の住宅は完全に破壊された。23㎞離れたガルベストンの住民も爆発に膝が震えたという。周辺の化学薬品、石油タンク、製油所も爆風により炎上した。少なくとも63の遺体が身元不明で、市内北部の共同墓地に埋葬された。テキサスシティ大災害はアメリカにとって防災計画の出発点になったと広く捉えられている。モンサント社などの石油プラントは再建に全力を傾け、最終的に街は事故から立ち直った。現在、港の同じ地域には多数の製油所が建ち並んでいる。テキサスシティはたびたび「死ぬことのない町」というニックネームで呼ばれたが、その名前の的確さは2008年9月13日前後にかけて襲ったハリケーン・アイクでもう一度試されることになる。
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