1938年1月・公道最高速度記録の樹立とローゼマイヤーの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 00:31 UTC 版)
「ルドルフ・カラツィオラ」の記事における「1938年1月・公道最高速度記録の樹立とローゼマイヤーの死」の解説
メルセデスチームはレースに復帰した1934年から自動車による速度記録のクラス記録を更新する挑戦を毎年シーズンオフに行うようになり、その全てにおいてカラツィオラは車両の操縦を任されていた。その挑戦は1935年に開通した帝国アウトバーンのフランクフルト〜ダルムシュタット間(現在のA5線)を舞台にして行われ、カラツィオラは1936年時点で国際B級(排気量5,001 - 8,000ccの車両) の速度記録(およそ時速365㎞)を樹立していた。しかし、翌1937年、この記録は時速400㎞を超える速度を記録したアウトウニオンのローゼマイヤーによって破られてしまう。雪辱を期したメルセデスは1938年のシーズンオフを待たず、1938年の年明け早々に再挑戦を行うことを急遽決定した。 1938年1月28日、改良されたW125レコルトワーゲン(速度記録車)に乗ったカラツィオラは時速432.692kmという新たなクラス記録を樹立して、アウトウニオンとローゼマイヤーへの逆襲に成功した。この記録は「公道で記録された最高速度記録」としてその後も長く残り、2017年に更新されるまで80年近くに渡って破られることのない記録となる。しかし、この日の最大の出来事はこの記録更新ではなかった。同日、アウトウニオンも速度記録に挑み、ローゼマイヤーは記録の奪還を期して走ったが、その走行時にクラッシュを起こし、この事故によりローゼマイヤーは帰らぬ人となってしまう。最大のライバルの死はカラツィオラにも衝撃を与えた。
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