1938年国籍法の回復
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「エストニアの国籍」の記事における「1938年国籍法の回復」の解説
1991年9月9日に政府が最高会議に提出した国籍法案は、1938年国籍法を基にしつつも、エストニア出身者・60歳以上の者・25年以上エストニアに居住する者に対し、(1992年1月1日までに国籍申請を行った場合に限り)国籍取得の優遇を認める内容であった。エストニア会議は、これを国民への裏切りであると激しく批判し、最高会議の側も、ロシア人への人権侵害を避けなければエストニアは欧米諸国から孤立する、と反論した。 しかし結局は、最高会議はゼロ・オプションが親露売国的であるとの世論に屈し、11月6日に1938年国籍法の回復を決議。父系血統主義についてのみ「欧州の基準に適合させるため」父母両系へと変更したが、1940年6月17日以降の移住者についてはやはり「非・国民」と決定した。これによって、成人人口の約40パーセントに当たる45万5000人が一切の法的地位を喪失し、無国籍(ロシア語版)状態に追いやられた(ただし、無国籍者が保持するソ連パスポート(ロシア語版)の有効性も即座には否定されなかったため、彼らの日常生活には激変は生じなかった)。 こうしてエストニアは、ラトビアとともに旧ソ連諸国のうちでゼロ・オプションを拒否する強硬姿勢を取った2か国の一つとなった。この対抗措置として、同月末にロシア最高会議(ロシア語版)は、在外ロシア人(英語版)から申請があった場合には自動的にロシア国籍を付与する法律を採択した。 1992年2月26日には国籍法の運用法が制定され、国籍申請に要する2年の居住期間(+1年の待機期間)を1990年3月30日から起算することが定められた。これには、運用法の発効とほぼ同時に居住期間が満期になるという申請者に有利な面もあったが、年内に実施される国民投票(英語版)・議会選挙(英語版)・大統領選挙のいずれからも申請者が排除されるという面もあった。また、他国の諜報機関やソ連軍での勤務歴のある者の申請も認められず、加えて合法的な収入を申請要件としたため、市場経済への移行期に失業した多数のロシア人も対象から外された。
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