1919年のクルド人の反乱
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「マフムード・バルザニイの乱」の記事における「1919年のクルド人の反乱」の解説
シェイク・マフムードは、イギリス支配下のイラクのクルディスタン地域で、クルド人の最初の反乱を率いた。スレイマニヤの知事に任じられる直前に、マフムードは当地のイギリス人警察官や軍の士官たちを逮捕するよう命じた。地域の実権を掌握すると、シェイクはクルド人各部族の支持者に呼びかけて兵を募り、自ら「クルディスタンの支配者」を名乗った。宗教指導者としての権威を利用し、シェイク・マフムードは1919年にイギリスに対するジハード(聖戦)を呼びかけ、ナショナリズムによる闘争に無関心であった多くのクルド人も巻き込んで、支持を集めた。闘争の大部分を支えた動機は信仰であったが、クルド人の小作人たちは、「万人にの国民的、政治的自由を (national and political liberty for all)」という思いを抱き、「社会的地位の改善」を求めて闘った。イギリスの支配に反対する運動が功を奏するようになると、イランからもイラクからも、各部族の戦士たちが次々とシェイク・マフムードと同盟した。マクダワル (McDowall) によると、シェイクの軍勢は、「大部分がバルジンジャの小作人や部族民で、カリム・ファター・ベグ (Karim Fattah Beg) が率いるハマヴァンド族、不満をもった一部のジャフ族(英語版)、ジャバリ族、シェイク・ビザイニ族、シュアン族だった」という。シェイク・マフムードの軍勢は、イギリス軍の隊列への待ち伏せ攻撃に成功したことで人気を高め、兵を集めることができた。 マフムードの数多い支持者、戦闘指揮者たちの中に、16歳のムスタファ・バルザニ(英語版)もいたが、彼はやがてクルド人ナショナリズムの大義の指導者、イラクのクルド人地域の軍事組織ペシュメルガの司令官となる人物であった。バルザニは配下とともにバルザニ族のシェイク・アーマド・バルザニイ (Shekyh Ahmad Barzani) の命を受けてピヤウ河谷 (Piyaw Valley) を横断してシェイク・マフムード・バルザニイと合流しようとした。その途中、何度も待ち伏せに遭遇しながら、バルザニとその配下はシェイク・マフムードのいた場所までたどり着いたが、反乱に加勢するには遅すぎた。バルザニたちは、500人規模の戦闘員を抱えていたシェイクの軍勢のごく一部に過ぎなかった。 シェイクの政治的、軍事的影響力が拡大してきていることに気づいたイギリスは、軍事的対応を余儀なくされた。イギリス陸軍の2旅団が投入され、1919年6月にスレイマニヤ近郊のダルマンディ・バジャン (Darbandi Bazyan) で、シェイク・マフムードの軍勢を打ち破った。
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