麦島城の発掘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/27 15:01 UTC 版)
平成に入って開発に伴う麦島城跡の本発掘調査が行われ、小西行長時代の本丸石垣、小天守が発掘された。 特に小西時代の小天守においては金箔鯱瓦、文禄・慶長の役の際に「隆慶二年 仲秋造」銘滴水瓦、同じく朝鮮半島から持ち帰ってきた「萬暦十二年」銘滴水瓦などが出土した。近年、立命館大学教授の高正龍と織豊期城郭研究会の山内淳司の調査によって「隆慶二年 仲秋造」銘滴水瓦の同范資料が釜山博物館に収蔵されていることが分かり、釜山の東莱倭城出土資料と同范であることが確認された。これにより、小西行長が文禄の役の際に釜山から滴水瓦と李朝瓦を持ち帰って麦島城で使用したことがあらためて裏付けられた。同時に、琉球を除く日本列島へ滴水瓦がもたらされた契機が文禄の役であることが確認されたとともに、日本にもたらされた滴水瓦が元来使用されていた場所も特定し得ることが証明された。 先の高正龍と山内淳司の調査において、長崎県対馬市の金石城跡で見つかった滴水瓦も文禄の役の際に釜山から持ち帰ったものであったことが確認された。 なお、加藤時代の本丸石垣等も出土したが、八代城(松江城跡、現在の八代城跡)築城に際して、大半の石材が持ち出されていた。 また、二ノ丸東側に面する外堀から地震で倒壊したと考えられている平櫓の部材が組まれた状態で出土した。これは、日本考古学史上において奈良県桜井市の山田寺跡東回廊の一部が出土したとき以来の例である。麦島城跡で見つかった平櫓には突上戸や鉄砲狭間などが残されており、壁は鉄砲の弾の貫通をふせぐため、竹小舞の中に丸礫や瓦片が詰められていた。 本丸東隅の石垣 櫓壁の出土状況 倒れた櫓の壁
※この「麦島城の発掘」の解説は、「麦島城」の解説の一部です。
「麦島城の発掘」を含む「麦島城」の記事については、「麦島城」の概要を参照ください。
- 麦島城の発掘のページへのリンク