鵜月洋
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鵜月 洋(うづき ひろし、1918年〈大正7年〉11月29日 - 1965年〈昭和40年〉6月12日)は、日本の国文学者。専門は、近世日本文学及び宣伝・広告文。
注釈
- ^ この年に優等賞が授与された卒業生は全部で28人であり、文学部で優等賞を受けた者は、鵜月の他に心理学者の本明寛(文学部哲学科心理学専攻)、考古学者の藤沢宗平(史学科国史専攻)がいる[5]。また、暉峻によると銀時計が与えられたという[4]。
- ^ 1932年10月15日に恩師金を基として、成績卓絶な論文を表彰する「恩賜記念賞」という学術奨励制度が制定され、その先行水準には達しないが、それに次ぐ水準の成績優秀な論文を表彰するために、1935年2月7日に制定されたのが「教職員賞」である[7]。
- ^ 中野三敏の助筆により死後刊行された[10]。
- ^ 中村博保の助筆により死後刊行された。中野によれば、当該書籍は鵜月の死後、中村が4年近くを費やして全面改稿に近いほど詳細に加筆したが、中村本人の意思で自身の名前は一切出さずに鵜月の単著という形にするはずだった。しかし中野達の説得により、後書きにおいてその旨を記す形にしたという[10]。中村による当該書籍の「あとがき」には、「結果的には私の解釈を大幅に盛り込むことになった。」とあり、その後に鵜月の原稿を整理・編集した箇所と中村が執筆・加筆した箇所の説明がされている[11]。
出典
- ^ a b c d e f g h 略年譜 1965, p. 195.
- ^ 鵜月洋「平和の終焉より動乱期へ ―ある早生児の慇懃無礼な思い出ばなし―」『国文学研究』第7号、早稲田大学国文学会、1952年10月20日、145-148頁。
- ^ a b 暉峻康隆「はしがき」『雨月物語評釈』角川書店〈日本古典評釈・全注釈叢書〉、1969年3月、1-2頁。
- ^ a b 暉峻康隆「はしがき」『広告文の歴史 キャッチフレーズの100年』日本経済新聞社〈日経新書30〉、1965年12月、3-4頁。
- ^ a b 「校報 卒業生ニシテ優等賞ヲ受ケシ者」『早稲田学報』第563号、早稲田大学校友会、1942年1月15日、38頁。
- ^ 「校報 教職員賞ヲ受クル者」『早稲田学報』第572号、早稲田大学校友会、1942年10月15日、56頁。
- ^ a b 『早稲田大学百年史』 第三巻、早稲田大学出版部、1987年3月、623-628頁。
- ^ 『日本古典評釈・全注釈叢書 月報10 雨月物語評釈』角川書店、1969年3月、7頁。
- ^ 「訃報」『早稲田学報』第753号、早稲田大学校友会、1965年7月15日、47頁。
- ^ a b c 中野三敏『本道楽』講談社、2008年7月、125-126頁。ISBN 9784062117937。
- ^ 中村博保「あとがき」『雨月物語評釈』角川書店〈日本古典評釈・全注釈叢書〉、1969年3月、775-776頁。
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