鴨緑江軍司令官としての活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 02:28 UTC 版)
「川村景明」の記事における「鴨緑江軍司令官としての活躍」の解説
日露戦争中、新たに鴨緑江軍が編成された。この軍団は満州軍とは別に行動できる部隊として、第3軍(司令官・乃木希典)から、勇猛で知られた第11師団を引き抜き、参謀本部が直接指揮に関与できる部隊として編成された軍団である(これには長岡外史のアイデアを採用したと言われる)。これに対し、現地軍の司令官であった大山巌は不満を述べたが、鴨緑江軍司令官に就任した川村は、大山と会談した際に「総司令部(満州軍)の指揮に従います」と明言し、事実上満州軍指揮下の軍団として作戦行動を共にすることになる。しかし鴨緑江軍は、実戦経験が豊富な第11師団を主軸とはしていたが、実際の主力は老兵(30歳以上の兵)を中心とした後備役第1師団の兵であり、編成当時から実戦で使えるものかどうか疑問の声が多かった。 川村は士気も戦闘力も劣ると思われていた鴨緑江軍を、第一線の部隊並にすべく行動を始める。あえて草鞋を履いた姿で前戦の塹壕に出かけ、各兵士に気さくに声を掛けて回り兵士を鼓舞した。兵士たちも屈託のない川村の姿に親しみを寄せるようになったと言われる。 川村の工夫と努力によって、役立たずと思われていた鴨緑江軍は良く戦い、特に奉天会戦では、ロシア軍を指揮するアレクセイ・クロパトキンに日本軍主力部隊と誤認させるほどの活躍を見せた。
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