高倉流と山科流の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 19:39 UTC 版)
有仁の死後、衣紋道は徳大寺実能と大炊御門経宗に伝わり、両家が天皇の着装を担うことになった。しかし、大炊御門家は衣紋に対してさしたる関心を持たず、有仁から伝えられた衣紋の技術は、助手をしていた高倉家に移った。南北朝時代には、高倉家から有能な人物が相次いで現れている。一方の徳大寺家では、承安2年(1172年)頃、3代目実定の猶子となった実教が衣紋道に熱心に取り組み、のちの山科家の祖となった。山科家は、宮廷の物品調達を職掌とする内蔵頭を世襲し、御服調進を家職とした。 主に内裏で天皇の御服調進を担った山科家に対して、高倉家は仙洞での上皇への装束奉仕を中心としたように、本来、調進は山科家、着装は大炊御門家という分掌であったが、忌服などで一方が職務を果たせない場合などが生じたため、両家ともに調進・着装を担うようになっていった。また、高倉家は足利義満との関係を深めることで、武家の装束をも取り扱うようになった。 応仁の乱などによる京都の荒廃は、職人の散逸と、それに伴う技術や製法の喪失など、衣紋道にも大きな影響を与えた。しかし、武家の統一政権が成立して社会が安定すると、途絶えていた朝儀が次第に再興され、同時に、有職故実の研究や考証が進んだことで装束も復旧されていった。山科家も、織田信長に接近するなどして伝統の復興を図った。やがて再び山科・高倉両家が御服調進と衣紋奉仕をともに担うようになると、衣紋道が両家の家道となった。両家の仕立てや着付けの作法は、次第に種々の違いが生じていき、それぞれ「山科流」「高倉流」と呼ばれた。
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