骨相学の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 01:30 UTC 版)
骨相学は、1840年代には衰退し始める。骨相学の大衆受けする性質は、諸刃の剣であった。爆発的な人気と裏腹に、各地で通俗的悪用がはびこり、やがて熱狂が時間とともに過ぎ去ると、骨相学者たちは山師扱いされた。育ての親であるシュプルツハイム、生みの親であるガルについても同様だった。 なお、骨相学は大学の学問分野として認められることは一度もなかった。学術界では、当初からきびしい批判を受けており、『エディンバラ・レヴュー』(1805年、1815年)に批判記事が載ったり、「頭蓋病者」のような風刺的表題の本も現われた。科学社会学者たちは骨相学者を社会改革に関心を持ち、「体制側から迫害を受けた」異端者として捉えてきた。 学問的にも、フーフェラント、フルーラン、フィリップ・ピネルらにより否定され、大脳中枢の解剖学的知見が蓄積され、その「地図」が明確に決定されてゆくにつれて、ガルの器官説自体が否定されていく。 しかし一方では、ガルが当初から関心を持っていた犯罪への応用において、犯人の頭蓋骨を計るという初期の骨相学的な犯罪の計測学から、犯罪者の様々なプロフィールを蓄積する実証的犯罪研究へとつながっていく(たとえばチェーザレ・ロンブローゾを祖とする犯罪生物学など)。 しかしまた「気質」を判定するという骨相学の志向は、ロンブローゾの生来的犯罪人説のような犯罪の素質論(犯罪を犯すか否かは当人の素質に左右される)から、優生学や人間改良思想へと展開していく。これは断種論(特定の人種を断つことを目指す)の背景にもつながる危険を持っていた。 なお人種の骨相学的分類では、日本人を含むモンゴロイドは「倫理的に劣り模倣的で独自性がない」とされた。 骨相学の考え方は20世紀初頭まで、大衆文化のなかに深く残ることになった。
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