馬場楠堰災害復旧紀念碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 06:44 UTC 版)
「鼻ぐり井手」の記事における「馬場楠堰災害復旧紀念碑」の解説
西日本水害により、鼻ぐりは耐えたが、堤は破壊された。その復旧記念碑に次の文章がある。 沿革 そもそも馬場楠堰並びにこの井手(いで)は三百五十年前、肥後国主加藤清正が、水利土木事業を興し、殖産の道を講ずるため、白川より分水流策として、元白水村、供合村の間に掘削が施されたものである。丘陵の地点には土砂の沈積(ちんせき)を虞れ、天下無類の仕法「鼻ぐり積(ぜき)」を設けて永久の疎水策を施工し、潤す水田九十五余町歩、耕す農民は斉しくその恩恵に浴した。偶々、昭和28年6月26日、熊本県下全域を襲った豪雨は各地に惨事を引き起こし、特に明治以来史上嘗て見しない大豪雨に見舞われた阿蘇一帯の濁流は白川に集中して大洪水と化し、各所に氾濫し、人命の損傷、橋家屋の流失、堰の崩壊、用水路並びに水田の埋没等、その被害は正に暗澹たる惨状を残した。 当馬場楠堰は、災害復旧費五千九百万円の全額国庫負担による永久的な県営復旧工事を完成し、今日の美田を再現するに至った。今ここに往時を偲び、竣工の喜びをわかち、これを録して後世の諸輩銘して忘るるなからん乎。昭和30年(1955年)10月竣工 熊本県議会災害対策特別委員 岡本 篤(あつし) 録す。
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