音楽運動の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 04:56 UTC 版)
この時期の学校ダンスは、「音楽運動」として何とか命脈を保った。空襲警報が鳴り響き、東京女高師にも焼夷弾が落とされるような緊迫した中で、戸倉は教授要目にダンスを残すために研究を続けた。戸倉がテーマを提示し、生徒が踊って見せ、これを修正していくという手法で教授要目に残すダンスとして音楽運動の教材作りを進めた。要目改正の委員会では、毎回のようにダンスに反対する意見が出され、戸倉は子供の発達にリズム・感情の育成がいかに重要か涙ながらに訴えた。 ある時、東京女高師体育館に陸軍の軍人がずらりと並び、戸倉の教え子は『くろがねの力』を踊って見せた。これは陸軍による教材の検閲だったとみられる。でき上がった教材は、スウェーデンのフォークダンス「ブレッキング(スウェーデン語版)」を改作した「こまの動き」や、『海ゆかば』や『愛国行進曲』に振り付けを施したものであった。またダンス用語の和訳に努め、一拍跳歩(スキップ)、追歩(フォローステップ)、振脚跳歩(マズルカステップ)などの訳語を作った。 音楽運動は従来の「唱歌遊戯及行進遊戯」と比較すると、基本練習を重視するものであり、動作の美や情緒の美的表現は圧縮された。戸倉は基本歩法・基本態勢・応用態勢から成る基本練習を強調することで、歩法と結合した上体運動としてダンスを残したのである。結果的に音楽運動は、時代の雰囲気に則した、「伴奏つきの体操」という程度の無味乾燥なダンスになったが、戸倉の脳裏にはリズムに合わせて楽しく踊る子供たちの姿があった。
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