雲南での失政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/29 04:47 UTC 版)
1945年(民国34年)10月、雲南省政府主席竜雲が蒋介石により武力で罷免されると、その後任となるために李宗黄が指名され、省民政庁長兼主席代理、雲南省党部主任委員として久しぶりに雲南省に戻ることになる。これは、竜雲の後継者と目されていた盧漢(当時ベトナムで日本軍降伏受諾事務に従事)が後任となることを蒋が望まなかったがための措置であった。 ところが李宗黄は前回の反省も無くまたしても強圧的な態度をとり、雲南派や省内各社会勢力から反発と敵意を買うだけだった。このために蒋介石も李を正式な省政府主席に任命することに二の足を踏み、12月には盧漢をベトナムから呼び戻して主席とせざるを得なくなる。挙句に李は学生デモ武力鎮圧事件をまたしても引き起こし(一二・一惨案)、翌年2月、民政庁長などからも罷免、再び雲南省を追い出されてしまった。 南京に戻った李宗黄は、党中央党政考核委員会秘書長に任ぜられた。1947年(民国36年)、行憲国民大会代表に当選している。国共内戦で国民党が敗北すると、李は台湾へ逃亡し、引き続き国民大会代表を務めた。このほか、総統府国策顧問、党中央評議委員、光復大陸設計研究委員会(中国語版)委員、中央政治大学教授などを歴任している。晩年は中国地方自治学会理事長に就任し、地方行政に関する各種書籍・雑誌を刊行した。 1978年(民国67年)6月16日、台北市にて病没。享年91(満90歳)。
※この「雲南での失政」の解説は、「李宗黄」の解説の一部です。
「雲南での失政」を含む「李宗黄」の記事については、「李宗黄」の概要を参照ください。
- 雲南での失政のページへのリンク