雲南からの離脱後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/08 12:44 UTC 版)
失脚後の竜雲は、軍事委員会軍事参議院院長という名ばかりの職を与えられ、南京に3年間軟禁された。しかし1948年(民国37年)12月、クレア・リー・シェンノート(陳納徳)などに助けられ、竜雲は香港に逃亡した。さらに中国国民党革命委員会(民革)に参加して、その中央委員となっている。1949年10月1日に中華人民共和国が建国されると、竜雲は中央人民政府委員に列せられる。1950年1月に北京に入り、新政府に参加した。 以後、人民革命軍事委員会委員、西南軍政委員会副主席、西南行政委員会副主席、全国人民代表大会常務委員、中国人民政治協商会議全国委員会常務委員、中国国民党革命委員会中央常務委員会副主席などを歴任している。1956年にかつてのソビエト連邦、ルーマニア、チェコ、ユーゴスラビアなどの東欧諸国を訪問した。しかし、1957年の反右派闘争で、竜は右派と認定され、批判を被っている。 1962年6月27日、北京で死去。享年79(満77歳)。その翌日に、竜に対する右派の指定は取り消されている。1980年7月、竜は右派ではなかった、と政府が正式に宣言し、名誉が回復された。
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