陸戦と海戦(第三次対仏大同盟)
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「ナポレオン戦争」の記事における「陸戦と海戦(第三次対仏大同盟)」の解説
外交関係は第三次対仏大同盟、戦役はオーストリア戦役 (1805年) を参照 1805年、ナポレオンはイギリス上陸を計画し、ドーバー海峡に面したブローニュに18万の兵力を集結させる。これに対してイギリスは、オーストリア・ハプスブルク、ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成した。戦いはレイベリヒ(ドイツ語版)率いるオーストリア軍7万のバイエルンへの侵攻によって開始された。フランス軍は8月下旬にブローニュを進発。9月25日から10月20日に及ぶウルム戦役においてオーストリア軍を包囲し降伏させた。ナポレオンはウィーンに入城するが、ロシア皇帝アレクサンドル1世とクトゥーゾフの率いるロシア軍がオーストリア軍残存部隊と合流し決戦を挑む。ナポレオンの即位1周年にあたる12月2日、アウステルリッツの戦いにおいて、ナポレオンは優勢な敵に対し、後に芸術と評される采配を振り完勝した。 その一方で海戦はフランスの敗北に終わっていた。ヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊は、ネルソン率いるイギリス艦隊に捕捉され、10月21日、トラファルガーの海戦で壊滅した。だがこの海戦は、直ちには大陸におけるナポレオンの覇権に影響を与えなかった。12月26日、オーストリアはプレスブルクの和約を締結してフランスへ屈服する。 翌1806年、ナポレオンは兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に即け、7月には、西南ドイツ諸邦の連合体で親ナポレオンのライン同盟を成立させた。これに先んじてオーストリア皇帝フランツ1世を称していた神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位した。
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