陸戦の専門家
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砲術学校高等科学生を修了し、「比叡」・「陸奥」の各分隊長を歴任。次いで砲術学校専攻科学生となり、陸軍歩兵学校に派遣された。砲術学校専攻科学生は数年に一人という存在で、この課程を経た陸戦専門家は1942年(昭和17年)で7名のみである。安田はその最先任者であった。 1930年(昭和5年)12月1日、海軍少佐へ進級。中佐時代にかけて約6年にわたる砲術学校教官のほか上海特別陸戦隊参謀、呉鎮守府第一陸戦隊司令として第二次上海事変を戦い、第一連合特別陸戦隊参謀となるなど、海軍部内の陸戦の権威であった。また「利根」副長を務めている。 二・二六事件においては海軍省警備のため横須賀鎮守府から派遣された陸戦隊の参謀となり、事件当日のうちに東京に上陸している。1940年(昭和15年)11月15日、海軍大佐へ進級。この頃は安田陸軍大佐の異名があった。陸戦と陸上対空射撃の教育を行う館山砲術学校の設立に伴い教頭として赴任。同校には日本海軍初の、陸戦専修高等科・普通科課程が設けられた。次いで横須賀鎮守府第五特別陸戦隊司令に就任し太平洋戦争開戦を迎えた。
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