陳永華将軍の墓
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陳永華夫妻のはじめ、赤山堡大潭山(現在の台南市柳営区果毅里)に葬られた。鄭氏政権が滅びた後、清朝は、二人の遺骸を同安県(現在の廈門市集美区)に改葬した。そのために、もともとの墓は荒廃した。日本が台湾を統治した時代になると、一人の日本人により墓碑が発見された。墓碑には、以下のようにある。「皇明贈資善大夫、正治上卿、都察院左都御史、總制、諮議參軍、監軍御史,諡文正陳公曁配夫人淑貞洪氏墓」墓碑は保存されている。1954年、墓碑が発見された場所には、衣冠塚が設置されている。 陳永華將軍古墓,創建於清康熙二十年(1681年),陳永華復甫,福建同安縣人,明諸生,深通孫吳兵法,復窮孔孟之書,父鼎以孝廉官同安教諭,明末死節,延平郡王鄭成功賞識陳氏才華,聘為參軍,使輔世子鄭経,永曆十六年五月,鄭成功積勞病逝,子經嗣位,授咨議參軍,草擬規章,規劃制度,百政俱舉,嗣擢總制,留守東寧,時經率軍轉戰漳詔,永華在後訓兵撫民,愛惜士類,儒術佐政,地方又安,稱世子文臣第一,永曆三十四年七月陳永華卒,與夫人洪氏合葬天興州赤山堡(即今果毅里)。民國十八年,於原野荒草榛間,發現墓碑,乃移置原墓地,重建保存之,墓碑文為「皇明贈資善大夫正治上卿都察院左都御史總制諮議參軍監軍御史諡文正陳公曁夫人淑貞洪氏墓」。民國四十二年,省政府指定為台湾省史跡。民國六十年本府撥款由陳氏宗親會重修民國六十五年五月由本府收管理。 — 台南縣政府製,中華民國六十五年六月、陳永華將軍古墓沿革
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