陳漢の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 07:07 UTC 版)
武昌に帰った陳理は帝位を継承し、徳寿と改元した。同年冬、朱元璋は武昌に遠征し、徳寿2年(1364年)2月にも再び遠征した。陳漢の丞相だった張必先が岳州から武昌に来援して、洪山に駐屯したが、常遇春がこれを攻撃して捕虜にし、城下で引き回した。張必先は勇敢な武将で信頼も厚かったため、城中の人は大いに恐れ、投降する者が増加した。朱元璋は陳漢の旧臣だった羅復仁を派遣し、陳理を招聘させた。 朱元璋は、ひれ伏したままで顔を上げようとしない陳理を抱き起こしてその手を握り、「私はお前を罪に落としたりしない」と言った。倉庫の財物を好きなだけ陳理に取らせ、凱旋してから帰徳侯に封じた。 祖父の陳普才には陳友諒を含め5人の息子がいた。武昌を平定した朱元璋は、陳普才を承恩侯、長男の陳友富を帰仁伯、次男の陳友直を懐恩伯に封じた。鄱陽湖の戦いで陳友諒とともに戦死した陳友仁には康山王を追贈し、役所に命じて廟を建てて弟の陳友貴とともに祀らせた。
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