陳泰と曹髦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 14:03 UTC 版)
『三国志』注に裴松之が引く諸史書では、曹髦(高貴郷公)が司馬昭の誅殺を図って挙兵し殺された事件(甘露の変)について、陳泰がどのような反応を示したかを載せている。 干宝の『晋紀』では、曹髦が殺害された後、司馬昭が朝臣を集めて相談したが、陳泰だけは出席しなかった。そこで、陳泰の叔父の荀顗を遣わして、自分たちに理があることを説明させた。しかし、陳泰は「世人は私と叔父上を比べていますが、今(殺された帝に対して忠節を保っているという点で)叔父上は私に敵いません」と言っただけだった。それでも、周囲の人々から強いられて、涙を流して参内した。司馬昭は密室で陳泰と二人きりになると、「私はどうすればいいだろうか」と尋ねた。陳泰は「(曹髦を殺した)賈充を斬り、天下に謝罪なされよ」と答えた。司馬昭が「別の手段を考えてはくれぬのか」と食い下がったが、陳泰は「私は、ただこれを進言しに参ったのです。別の手段など存じません」と答えるのみだった。司馬昭はそれ以上何も言わなかった。 『魏氏春秋』では、帝(曹髦)が崩じた時、司馬孚と陳泰は、帝の遺体を腿に枕させて哭泣の限りを尽くした。そこへ司馬昭が参内したため、陳泰は彼に向かって泣いたとあり、以下、『晋紀』と同じようなやりとりが記載されるが、この会見の後に「かくして(陳泰は)血を吐いて亡くなった」との記述が付加されている点が大きく異なる。 これらを受けたと思しき『世説新語』では、司馬昭が賈充の処刑に対して「それ以下で済む方法はないか」と言ったところ、陳泰は「それ以上の方法(司馬昭の死を指すとされる)はあっても、それ以下はあり得ません」と答えたとされ、その注に引く『漢晋春秋』によれば、司馬昭に相談された陳泰は「公(司馬昭)の帝を補佐する功績は古人に並び、後世に伝わるであろうと思っておりましたのに、君主を殺害する事件が起きたのは残念なことです。すぐに賈充を斬れば、自らの明かしを立てることができましょう」と進言するも、同様に司馬昭に賈充の処刑を拒否され、自殺した。 『晋紀』『魏氏春秋』の記述について、裴松之は『晋紀』では陳泰の官位が「太常」とされているが、陳泰は太常に就任したことはない、また『魏氏春秋』も既存の内容の焼き直しであると批判した。
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