関根組解散まで
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1944年(昭和19年)夏過ぎに軍部から警視庁を通じて大和民労会に国家奉仕の依頼があり、児玉誉士夫とともに鉄・銅資源の収集を行った。藤田卯一郎も鉄・銅資源の収集に奔走した。 戦争が終わると土建業としての活動を活発化させ、事業場建設の際には自由党の吉田茂や鳩山一郎から、花輪が送られるまでになった。新憲法施行に伴う1947年(昭和22年)4月の選挙では配下を自由党候補者の応援に向かわせている。その一方で、藤田の発案から大幹部に金バッジ・幹部に銀バッジ・準幹部に青バッジを着けさせ関根組の幹部・組員と非組員を見分けやすくした。 1947年(昭和、四月選挙で自由党候補者を後援した。 選挙が終わると、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から内務省警保局を通じて国家警察本部にヤクザの一斉検挙と壊滅の指示が下り、関根組も1947年7月8日に恐喝容疑で手入れを受けた。この手入れで木津政雄が隠匿していた航空機用機関銃が発見され、機関銃の不法所持容疑で関根・木津など関根組幹部、多数の組員がGHQに検挙され軍事裁判を受けて服役。関根は小菅刑務所に収監され留守を藤田に任せたが、関根組は解散状態に追い込まれたので新たに「藤田組」を結成。組織の存続を図ったが、1949年(昭和24年)3月にGHQによる団体等規正令により解散を命じられて消滅した。関根組も同年6月に解散を命じられて消滅した。
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