閉塞の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/13 00:16 UTC 版)
それぞれの線路で一方向に列車を走らせることができる複線の鉄道路線では、追突を防ぐためにそれぞれの列車の間に十分な間隔を空けなければならない。鉄道のごく初期には、係員(当初は警察官出身者を雇ったため、ポリスメン(policemen)あるいはオフィサー(officer)と呼ばれていた)が線路に沿って一定の間隔で配置され、ストップウォッチを持ち先行列車が通過してから一定の時間が経過したかどうかを通過する列車の運転士に手信号で伝えていた。この方式は時隔法(time interval working)と呼ばれていた。先行列車の通過から短い時間で続行列車が通過する場合は、速度を落として間隔を空けることになっていた。 計時する係員は、先行列車がその区間を通過したかどうかを知る手段が何もなく、先行列車が何らかの理由で停車してしまった場合、続行列車の乗務員はそれを視認しない限りはそれを知ることができなかった。この結果当然ながら、初期の鉄道では事故が日常的に発生していた。電信が発明されたことによって、駅員や信号扱所の係員は、列車が通過してその区間が開通したことを知らせるメッセージを伝えることができるようになった。このシステムが閉塞である。 1830年代から手信号の代わりに固定された機械式の信号機が使われるようになった。信号機は当初それぞれに操作されていたが、後に一定範囲の信号機の操作てこを信号扱所にまとめて取り扱うことが普通になった。列車が区間に進入すると、その区間の信号機を信号手が操作して停止現示にする。列車が通過したことを知らせるメッセージが来ると、信号手は信号機を進行現示に戻す。 閉塞方式は1850年代から1860年代にかけて徐々に普及し、アーマー鉄道事故をはじめとする数々の列車事故を受けてイギリス議会が1889年に規制法を成立させて法的に強制的に適用されることになった。この法律は全ての旅客列車に閉塞方式を使用することを義務付け、また連動装置も義務付けられていた。これらの装置は現代の鉄道の基本的な保安装置となっている。ほぼ同時期にアメリカでも同様の規制が行われるようになった。 全ての閉塞方式が信号機によって保安されていたわけではない。交通量の少ない単線区間では、通票(トークン)を各列車の運転士が携行し、その通票を所持していることがその区間に進入する権限があることを保証するという方式が用いられていた。
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